司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>



 あいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由展・その後」が中止に追い込まれた事態を契機に、皮肉にも「表現の自由」が注目されている。この事態を危惧する論調の中には、「検閲」「テロ」という表現も登場している。しかし、今、私たちの社会が、このテーマで最もこだわるべきキーワードは、「覚悟」と「自覚」である、という気がしてならない。

 「表現の自由」で、まず、私たちが確認すべき基本は、いうまでもなく、それがすべての見解、内容について認められるという原則である。つまり、内容のいかんにかかわらず、表明が自由であるということでなければならない。そして、同時にそれを認めることが、自己の自由につながるということである。全く正反対の意見の表現を認めることが、自己の反対意見の表現の自由を確固たるものにする、という思考方法である。

 したがって、内容によって表現を阻止する行為は、ブーメランのように自分の表現を脅かすかことにつながる、と考えるのが、「表現の自由」を権利としてとらえる発想の基本でなければならない。だから、その表現に対する批判は当然許されるし、それも「表現の自由」のもとに当然保証されなければならない。問題は、批判のもとに、表現をさせない、表現を阻止するという行為にほかならない。「表現の自由」という発想のもとでは、この愚かさに気がつかなければならないのである。

 その意味で、今回の事態は、やはり主催者側が「中止」したという選択そのものが、「表現の自由」の発想からは、逸脱した、最悪の結果といわなければならない。多数のクレームが来た、混乱・危険が予想される、公共の施設であれば市民のコンセンサスが必要、といったことが、中止の選択理由として並べられるかもしれない。しかし、開催を決めた以上、いかなる反発も受けとめ、あるいは説明し、実行しなければ、「表現の自由」が貫けないという「覚悟」が、まず、主催者側に必要なのである。

 「政治性」あるいは「ヘイト」というキーワードで、事前にふるいにかけるべき、という考え方がある。しかし、この二つのキーワードとも、むしろ「表現の自由」にとっては、まず、危険なキーワードとみるべきだ。いうまでもなく、「政治性」という言葉は、いかなるものにでも被せられかねない。むしろ「政治的」であるか故に、「表現の自由」が制約されることこそ、その発想を脅かす。基本はあくまで、あらゆる「政治的」なものの表現が自由であるべきだ。当然、異なる政治的な立場が、この「自由」のもとに、今度は堂々と表現されればいいだけである。

 「ヘイト」についても、危ういものがないとはいえない。何が「ヘイト」か、という基準が不明確なまま、権力を含めて「ヘイト」が口実になる可能性が拭いされないからだ。繰り返すが、「これはヘイトに当たる」という批判があるのならば、主催者は、それは堂々と受けとめる必要がある。「表現の自由」をいうのであれば、どこまでもそれが事前規制につながることの方を問題視するべきなのである。

 もちろん、中止要求の脅迫やその先の犯罪行為に及ぶようなことがあれば、それ自体許されてはならない。それに屈して中止することよりも、徹底的にそれを許さない実績こそ、「表現の自由」に資するといわなければならない。それもまた「覚悟」である。

 主催者側の「覚悟」の問題だけではない。今回の中止に追い込まれた事態の核心は、政治家や政治団体による圧力や、ましてテロによるものではなく、天皇に関連した作品の展示に抗議する、広範な「市民の声」にあった、という見方がある。主催者として、この声に配慮したというのは、ひとつの理屈とされるかもしれない。

 しかし、中止の是非ということになれば、事前に接することがなかった、「表現の自由」からも(‘あるいはそれをテーマにする展示会ならばなおさらのこと)、あくまで実施すべき、という「市民の声」もあったはずで、それは切り捨てられていいのか、という話にもなる。また、これまでには、今回のようにクレームが殺到したわけでもないのに、「政治性」とそれに対する「市民」の反応を忖度して、中止が選択されるケースもなかったわけではない。

 この方向性が意味するものが何かといえば、一部の「市民の声」によって、あるいは抗議をちらつかせることだけでも、公開を中止に追い込めるということであり、いわば「表現の自由」を無効化する実績にほかならない。

 問題視して抗議する市民の側は、それが正当な見解として表現され、伝えられることにこだわるとともに、それが中止につながるのであれば、逆に「口実化」を含めて、まさにその実績がブーメランのように跳ね返り、自分の「表現の自由」の首を絞めかねないという懸念と自覚を持つべきなのである。一時の「中止」という結論に、溜飲を下げている場合ではない。

 犯罪に当たるもの以外、表現は事前規制されることなく、あくまで異論も表現によって対抗されるべきであり、それによってしか「表現の自由」は全うされない。あるいはそれが見る側にとって、不快なものであったとしても、「見ない自由」の行使と、正当な内容に対する意見表明―表現によって向き合う。ことあるごとにネットで、攻撃的論調が拡散・炎上する、現在の世論状況を見るにつけ、市民側にもそうした自覚が求められてるように思えてならない。



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