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 日本国憲法からしても、戦争拡大へのリスクからしても、ほとんど正気の沙汰とは思えない「敵基地攻撃」能力保有に岸田内閣は前のめりである。戦争にかかわるテーマに対し、慎重であることよりも、「必要性」を前提とする可能性にとりつかれたように傾斜するようにみえる、その姿勢の真意はどこにあるのだろうか。

 いかにウクライナにおいて、ロシアの侵略があったとしても、外交では戦争は止められないという前提に一気に立つかのように、武力行使用意の必要性を説くのは飛躍であり、極論ともいえる。むしろ、そのこと自体に、今のこの国の危うさがある。

 「9条」を目の敵にするような論調が、この国には存在してきたが、現在の「敵基地攻撃」能力保有への現内閣の傾斜は、まさにそれと地続きのものにみえる。つまりは、「戦争」をはらむ欲求の発露。戦後ずっと一部の勢力が抱え、貯め込んできたコンプレックスのごときものがそこにみてとれる。

 しかし、そうであったとしても、やはり岸田内閣の「異常性」をどうとらえるべきであろうか。3月28日付け「朝日新聞」朝刊は、過去の政府答弁などに触れながら、この「異常性」に踏み込んでいる(「敵基地攻撃 違憲の指摘 歴代内閣『合憲は最小限・手段がない場合』」)。

 「敵基地攻撃」合憲の根拠とされる1956年2月の衆院内閣委員会での鳩山一郎首相の答弁(防衛庁長官代読)で示された、「必要最小限度」「他に手段がない」という同攻撃の発動条件。米国という「世界最強の抑止力」があるにもかかわらず、「他に手段がない」と想定する根拠や、「敵基地攻撃」保有そのものが「必要最小限度」を超えた違憲性はらむことが今国会で取り上げられた。

 過去の政府答弁(1959年衆院内閣委、伊能繁次郎・防衛庁長官)では、「敵基地攻撃」は、「法理上、自衛の範囲」としながら、「他に手段がない」場合が国連の援助や日米安全保障条約もない、「今日では現実の問題として起こりがたい」「平生から他国を攻撃するような、攻撃的な脅威を与えるような武器を持つことは憲法の趣旨ではない」としていた。また1999年衆院安保委で当時の野呂田芳茂防衛庁長官がこの答弁が「現在でも当てはまる」と述べていた。

 これに対する、岸田内閣の主張は「安全保障環境の変化」に尽きてしまう。首相答弁の中では、トートロジのようにもとれる「反撃能力」が「他に手段のない、必要最小限の措置」という指摘とともに、米国の打撃力完全依存からの脱却した「自ら守る努力」の必要性に触れた箇所もある。背景にある米国の意図と、その向こうにみえる、いよいよ米国の戦略に完全に組み込まれる日本。この機会に、自衛戦争への「努力」を国家として当たり前のものとして、国民にのませようとする意図まで透けて見える。

 「必要最小限」は具体的に説明できず、「他に手段がない」ということについては、具体的に考えるほどあり得ない。それを前提として、「国民の命を守る」どころか、実行されたならば、取り返しがつかない、およそ本格戦争に突入することを覚悟するしかなくなるような「攻撃能力」だけは、相手の脅威を無視して保有すべきという――。やはり、どう考えても、正気の沙汰ではない。

 もちろん、仮に「敵基地攻撃」を実施した場合、それによって相手を完全に沈黙させられる、再反撃は起こり得ない(起こり得ないような敵基地の完全攻撃を実現する)などという説明がなされているわけでもなく、そこに責任を負うというような話はどこにもない。

 しかし、嫌なことを考えれば、前のめりの岸田首相の本心は、それでもわが国の国民に、このロシアのウクライナ侵攻によって、ある意味、漠然とこの国に広がった「明日は我が身」的な脅威のムードのなかで、この説明にもならない説明が通用すると考えているのではないか。

 「正気」であらねばならない私たちがまず、自覚的にならなければいけないことは、そのことではないかという気がする。

 



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