司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 「淘汰されればいい」。法科大学院の撤退が始まったころ、弁護士会のなかからも、こんな声を聞いた。文字通り、前向きな意味で、つまりは良質なものが残るという趣旨で、これを言っているようにとれる場合もあったが、半ば皮肉にとれるようなものは少なくなかった。資格制度でありながら、取りあえず合格させて、数を増やせ、その先は競争・淘汰にさらされればいい、と、大学関係者からも含め、この「改革」のなかで、さんざん言われ続けてきた弁護士としては、「その自由競争にあなた方もさらされればいいのだ」と言い返したくなる、というのは、分からなくもなかった。

 

 74校のうちの35校という、事実上ほぼ半数が撤退という、法科大学院の「失敗」が、社会的にも注目されているが、まともに前記「淘汰」の効用論を当てはめてしまえば、「失敗」どころか、これは淘汰の過程として、問題ないということにもなりかねない。現にそうした前向きな捉え方をしている人もいるし、撤退した法科大学院関係者の自覚としても、「競争に負けた」という捉え方を目や耳にする。

 

 しかし、そうした捉え方は、法曹養成にとって決して望ましいものではない、と言わなければならない。一つには、この「淘汰」は必ずしも制度全体の良質化を意味しているとはいいにくい。法科大学院制度は法曹の量産計画を支えるものとして、それと一体として導入されたものである。その量産計画が破綻し、弁護士という資格の経済的魅力が減退するとともに、高額を払う強制プロセスそのものの負担が選択されなくなったというのが、今、法曹界と法科大学院が抱える志望者減の現実であり、ここが「失敗」の根源である。

 

 つまり、有り体にいえば、この状況のなかで、かろうじて合格率が高く、実績のあるところだけに志望者が流れ、結果的に生き残れているだけであり、より法科大学院制度とその先の法曹への道が、この「淘汰」を経て、魅力的になったり、良質化したわけではない。つまり、法曹養成にとっても、志望者にとっても、積極的に評価すべき方向に乏しい話なのである。その意味で、良質が選別され、あたかも競争の良い結果を利用者が期待させる「淘汰」という言葉はあてはめるべきではないともいえる。

 

 もう一つは、そもそもこれが資格制度にかかわっているという点である。資格は、いうまでもなく、あくまで一定の能力を保証する安定した制度であるべきものだ。逆にいえば、安定的な資格保証こそ、利用者が求める安心・信頼の保証であり、それこそ社会が資格制度に求めているものである。今の法科大学院制度にそうした安定的な資格への人材養成機関としての信頼が持てるだろうか。法曹養成の「中核」にふさわしいのだろうか。

 

 当然、志望者にとっても見過ごせない不安定だ。いつ撤退するか分からない、どこまで撤退するか分からない状態の制度を誰が信頼するだろうか。「安定したところだけが残るのだからいい」とここでも「淘汰」の過程論が繰り出されるかもしれない。しかし、それがいつまで続くかも分からない。

 

 司法試験合格率がさえ上がれば、法科大学院が選択される、という関係者の声がつとにある。受かるルートならば、人は来るはずだから、と。しかし、この論法には、資格制度への養成を「中核」として担っているという自覚が感じられない。合格率が志望者獲得の決定的要素でないことは、低い合格率でも志望者はチャレンジしていた旧司法試験体制が証明している。この「淘汰」が良質化でないことを、自ら語っていることにもなる。

 

 そもそも大学運営という、「あるべき法曹の輩出」という法曹養成の目的とは別の要素を引きずらざるを得ない機関に「中核」たる地位を与えるべきだったのかも問われていいい。

 

 法科大学院の半数撤退を1面で報じた7月31日付けの朝日新聞朝刊は、記事のなかで、ようやく「背景には、政府の法曹需要の読みの誤りがある」として、その事実を認めた。「改革」路線に乗っかって、法科大学院制度とともに法曹人口増員政策の旗を振ってきた大新聞が、前記「失敗」の根源を認める、踏み込んだ書き方をしたことになる。

 

 「失敗」の真の原因は、国サイドや推進論者がいうような、当初想定外の74校の乱立でも、「不当に」低い司法試験の合格率でもない。そうした苦しい関係者の弁明は、むしろ「失敗」の根源に立ちかえる視点を遠のかせる。「改革」路線の根本に立ち返り、何が考慮されず、どこに無理があったのかから検証し直すべきだ。



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