司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 刑事司法の改革には、それを困難にする決定的要素として、市民との距離感があることは、どうしても否定できない。日弁連は、制度改革の必要性を訴えるとき、「市民」に必要性を訴え、その理解を求める形を度々とってきたし、それは運動論としては、ある意味当然という見方もできるかもしれない。しかし、とりわけ、刑事司法分野において、それがいかに高いハードルであるのかも、彼らが知らないわけはない。逆に、そこを前提しなければ、それを承知のうえでなければ、こうした訴えはできない、ということにもなるはずである。

 有り体にいえば、大衆の多くは、現実問題として、刑事司法をわが身に置き換えて考えられない。かつて弁護士らによる運動論的なアピールのなかには、「明日は我が身」的なニュアンスが込められるものもあったが、実際多くの人は刑事司法を生涯自らが関わらないだろうテーマとしてみてしまう。つまり、そのための無関心、あるいは観念的に改善の必要性を理解しつつ、そこから先に進まない思考が支配する。世論の後押しで何かを動かそうとすることを期待するのが、土台無理とされても仕方がない状況にあるのである。

 裁判員制度必要論のなかでいわれている、国民の理解論、つまり市民が裁判に参加することで刑事裁判への国民の理解が深まるという言い分には、こうした状況が口実化されている観がある。現状に国民の理解促進の必要性があって、制度がそれに道を開くと。

 しかし、それがあくまで口実である底がみえてしまうのは、そもそも刑事裁判が国民理解に利用されていいのかという妥当性の問題もさることながら、その理解ということが、社会と経験を十分に共有できるかも疑わしい、一部市民の裁判への強制参加で実現する、という、いかに気の遠くなる話であるかを、導入必要論を叫ぶ側が知らないわけはないと分かってしまうからである。

 前日産自動車会長のカルロス・ゴーン被告人の国外逃亡で、日本の「人質司法」が取り上げられている。法曹界の議論で、現状を批判する弁護士会側が主に使われてきたこの表現を、マスコミも使い、相当一般にも知られるようになった。身体拘束という、アンフェアな状況のなかでの取り調べの問題性を浮き立たせる点で、この表現には一定の巧みさがある(「人質」以上の暴力であり、実質「罰」であるという声もあるが)。

  しかし、残念ながら、今回の事件で、逆に日本での「人質司法」をめぐる世論状況には、それを問題視する側にむしろ厳しい現実があることも浮き彫りになっているようにみえる。

 保釈率が前記裁判員制度を契機に上昇した、という話に、今回の件に絡めて言及しているメディアは多い。1990年代初め、20%台だった保釈率は、同年台半ばに20%を切ると下降し続け、2000年台半ばには11%まで落ち込んだが、裁判員制度が導入された2009年以降に、徐々に上昇。2011年に20%台を回復し、2016年以降は30%台をキープしている。裁判員制度推進論者としては、導入が「人質司法」打破に貢献した、とプラス加点したいところである。

 しかし、あえていえば、あくまで裁判員制度を契機に、「人質司法」の問題性への社会的理解が深まったわけでも、ましてこれは厳しい世論の目が後押しした結果でもない。裁判員制度の短期集中審理の公判準備のために、被告人の身体拘束が制度として不都合になったに過ぎない。結果は結果という人もいるかもしれないが、とはいえ制度の都合による。「人質司法」の体質的な問題にメスが入れられたわけではなく、これでどうにかなるという見方も楽観的過ぎることはいうまでもない。

 そして、今回の件での社会のリアクションはどうであろうか。メディアの扱いも、ゴーン氏の国外逃亡の違法性と、彼の言い分としての「人質司法」を並べて、どちらが「言い分として」正しいか的な扱いに終始しているといっていい。当然のそれを目にする、前記状況にある国民の目線も、そのなかでとらえるだろう。

 捜査当局は当然ながら、メディアまでが、「やましくないならば、日本で裁判を受ければいい(受けるはずだ)」式のコメントを垂れ流している。ゴーン被告人の裁判の行方、逃亡の違法性、「人質司法」は、本来別の視点で立てられるはずの問題である。手段としての逃亡の是非ということになれば、彼の弁護士も(否、弁護士であるがゆえに)、現制度のなかでどうにか闘うべきだったという立場に立つだろうが、「人質司法」の上で闘うことを肯定しているわけでもない、という複雑な立場に置かれている(「ゴーン被告人国外逃亡が生み出した皮肉な状況」)。

 適正手続きということにこだわらずに、「現制度のうえで」として片付けるのは、仮にゴーン被告人の言い分が、逃避のための口実化の要素をはらんでいても、本来、軽視していいことにはならないのである。。

 その意味で、今回、ゴーン被告人の問題の中で「人質司法」が注目されたことが、果たしてこの問題に向き合っていく上で、よかったことなのか、プラスに働くことなのかは、予断を許さない状況にあるといわなければならない。日本の刑事司法が国際的な批判にさらされる「結果」の先に期待した絵を描く声ももちろんあるが、逆にそれが不幸にも国外逃亡、日本の司法軽視という文脈とともに取り上げられるケースであるがために、むしろ「人質司法」はそのなかに埋没しかねない、のである。

 そして、その時に、前記国民の世論状況がどう反応するのかを考えると、さらに悲観的な見方も出来てしまう。早くも保釈の運用が厳しくなることが予想されているが、「ゴーンけしからん」の世論を上回る、冷静な視点で「人質司法」はこの国で取り上げられ、国民のなかに問題視する種は植えられるだろうか。この展開次第では、「人質司法」は逆にこの国で強固になりかねない状況にあるようにみえてならない。


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