司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 1月16日に開かれた新任判事補82人に対する辞令交付式で訓示した、大谷直人・最高裁長官は、そのなかで次のように述べたと報じられている(産経)。

 

 「裁判官は自分を客観視する必要がある」
 「裁くことへの畏(おそ)れ、危うさの感覚を持つことが大切だ」

 

 この言葉を見て、真っ先に頭に浮かんだのは、裁判員についてである。裁判所は、裁判員に対して、こうしたことをしっかりと伝わる形で伝えているだろうか。そもそも裁判員制度そのものが、こうした「覚悟」を伝え、そのうえに導入されたものだろうか――。

 

 大谷長官の言葉は、職業裁判員とともに「裁く側」に立つことになる、裁判員にも、同様に肝に銘じてもらうべきもののはずである。裁判官の職業的自覚にだけ、訴えるべきものとはいえない。いうまでもなく、「裁かれる側」からすれば、全く同じであってもらわなければならないからである。ともに裁くプロが自覚しておけばよし、と、裁判所もさすがにいえまい。

 

 改めて、裁判所が市民向けに作った裁判員制度のQ&Aをみても、上記のような「裁く側」の厳しい自覚、覚悟を促すものが見当たらない。「義務」について言及した部分でも、意見を述べること、公平誠実な職務、守秘義務、そして違反した場合の処罰についてだけ。漫画仕立ての解説パンフでは、参加に不安をもらす市民に対して、女性裁判官がこともなげに「大丈夫」として、法律知識はいらない、裁判官が説明するから、と話をそちらに持っていき、最後はその市民にこう語らせる。「なんだ、あたしがいつもやっていることとあまり変わりないじゃないの」(「よくわかる!裁判員制度Q&A」)。

 

 もっとも「何をいまさら」と言う人もいうかもしれない。なぜなら、裁判員制度の導入にあっては、これまでも徹頭徹尾、参加する市民側の「裁く」ことへの覚悟、それこそ大谷長官がいった「畏れ」「危うさ」といったことを伝えることは、後方に押しやられてきたからである。そして、その理由も、明白だ。いうまでもなく、この制度がはじめから国民の導入への意思を背景とせず、消極的な姿勢が、各種世論調査でもはっきりしていたからである。

 

 司法改革の一つの目玉政策となった、裁判員制度の導入にあって、推進する側は、この制度がいかに誰でも参加できるか、心配いらないか、つまりは、あなたも「裁きの場」に立てるというキャンペーンを繰り広げた。「普段着で」「普通の常識で」といったイメージ戦略が展開され、その都度、前記「Q&A」でも登場した「困ったらプロの裁判官が横にいるから大丈夫」といったニュアンスが付け加えられた。最も参加に消極的とされた主婦層を相手に、事実認定がダンナの浮気を見抜くのと同じと説明したという、女性検事の話まで残っている(「どうなの司法改革通信Vol.29」)。

 

 つまりは、「裁く側」の厳しい覚悟を伝えることは、制度導入ありきの「改革」の中では、やぶへびなものとして扱われた、といっていい。別の言い方をすれば、制度導入という既定方針の前に、政策的にそれが行われたということである。とりわけ、最も市民が想定しやすい「死刑」に関与する厳しさについては、導入前に明らかに後方に回され、極力言及されなかったといっていい。プロの裁判官でも葛藤する究極の刑罰について、職業的自覚をもとに選任されたとはいえない市民に、ここを入念に伝え、覚悟ができるかを問わないという方が不自然ではないだろうか。

 

 事実認定もさることながら、量刑への関与は非常に重い責任を負う。本来、自覚や覚悟なければ、参加してはいけないし、させてもいけないというのが、「裁かれる側」からみた考え方であるし、今でもそうとらえている専門家も少なくない(花伝社「マスコミが伝えない裁判員制度の真相」)。

 

 裁判員に参加しない市民の増加によって、裁判員の層に偏りが生じ、それが多角的な視点や常識が反映することを期待する制度の在り方を損なう、ということを懸念する見方か、専門家の中にある(NHK「ニュースウオッチ9」)。しかし、そのことの前に、裁判でありながら、「裁く」ことの自覚、覚悟を前面に打ち出せないという、矛盾を抱え、それを回避したところで市民は離れていく制度の無理と現実をまず、直視すべきある。



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