司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 多数決よりも、少数意見の尊重こそ、民主主義で試される叡智だと思ってきた。また、そのように教わってきた。多数決で選択されなかった意見を考慮にいれず、全体を選択された意見に従わせるということになれば、全体主義的になる恐れをはらむ。できるだけ、少数意見を汲み、広くコンセンサスを得て多様性を確保する方が、民主主義にふさわしい。

 

 ただ、この考慮のプロセスには、当然、手間がかかるし、工夫も求められる。だから、決めきれないものを決めるという、決定手続きとしての多数決の利便性と効率性に目を奪われたならば、このプロセスへの努力は、すぐに疎かになってしまう。そのことも民主主義国家の国民である私たちは知っている。

 

 政権獲得・維持を目指す、この国の政治家が口々に言う「決められる政治」という言葉には、その意味で、もともと危ういものを感じてきた。「決められる」立場になったとき、前記民主主義で試されている叡智の結集に、彼らがどこまで真剣に意を用いて、努力するのか。それによっては、「民主主義国家」であるはずの、わが国の未来は、全く違うものになるということを予感させたからである。

 

 7月15日の衆院平和安全法制特別委員会での安保関連法案の強行採決に、「民主主義国家」日本の悪夢を見るような思いになった。この法案は、まさに「戦争法案」そのものであり、集団的自衛権の行使そのものが違憲であり、どんなに安保政策上の根拠を並び立てても、立憲主義のもと、憲法の縛りの下検討されるべきであるという前提に立つ以上、その余を判断するまでもなく、そもそもアウトととらえるべきだ。

 

 しかし、その法案が委員会を通過した事態の深刻さに加え、私たちが同様に見せつけられ、直面している深刻な問題は、「民主主義国家」日本の現実そのものにある。この法案に対して、国民のなかにも当然、賛否はある。しかし、この強行採決で考慮されていないのは、少数意見ではない。安倍晋三首相も与党議員も、そのことをもちろん承知している。賛成が多数になるまで国民の理解が広がっていないことは首相や閣僚の一部がはっきりと認めている。

 

 この状態で採決することに、首相も、委員会に出席した与党政治家も、何の躊躇もない。「民主主義」の筋として、いくらなんでもこれはできない、という声を誰も挙げないというのが、この国の私たちの代表者たちの「民主的」なレベルなのだ。自らが掲げた政策を押し通すために、世論の多数意見も無視し、耳を貸さない代表者に、まして自分たちの政策に反する少数意見への考慮をどうして期待できるだろうか。民主主義の叡智などほど遠い、その現実に愕然とするのだ。

 

 多数派が形成されているなかで、彼らの手を止めさせるのは、内閣支持率だとニュース解説者が語っていた。それは真実だが、それが意味するところは、民主主義国家の代表として世論に向き合う姿では決してない。その解説者も当たり前のように言っていたが、そこにある問題意識は政権の維持と当落だけだ。

 

 どんな多数派世論無視の強行採決をしようが、次回当選できればいいという彼らの価値観。もちろん、そこには有権者が「忘れる」、投票日まで怒りは持続せず、集票に影響しなくなるという、とてつもない侮りがある。確かに、その脅威もまた、彼らを拘束するのであれば、民主主義にとって必要な緊張関係であり、そのことの自覚は私たちにも求められる。

 

 しかし、そのことだけで動く政治家に本当の意味で期待できるだろうか。当落を多数意見で値踏みするのならば、少数意見考慮への叡智を繰り出す努力など期待できるわけがないし、私たちの目の届かないところで、どのような判断をするか分かったものではない。そもそも投票日までに「忘れてくれればいい」のだから。

 

 選んだのは我々であり、また侮られているのは我々だ。この「民主主義」国家の代表たちのレベルは、私たち国民のレベルとされても仕方がないし、むしろ私たちは、もっと積極的にそう自覚しなければならないだろう。「決められる政治」というスローガンの果てに、「戦争」と「民主主義」という二つのテーマで、日本の深刻な現実を見せつけられた「悪夢」の日を決して忘れてはならない。



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