昨年、安保関連法制をめぐる衆院憲法審査会での「違憲」見解が注目された長谷部恭男・早稲田大学教授が、2月5日に開かれた緊急事態条項に関するシンポジウムで行った講演で、同法制と同条項に関してみせた安倍政権の共通の「手口」といえるものについて、的確に分析している。
それは、安全と安心の違い。安倍政権がしきりと国民の不安を煽り、制度構築を推進しようとしているのは、実は安全保障ではなく、安心保障なのだ、と。しかし、安全は具体的な問題に対して、対処すればよいが、不安のタネは尽きず、安心には絶対にたどりつけない。だから、安心の保障を掲げて進められれば、政府の権限は無限に拡大してしまうのだ、と。
もちろん、これは確信的に行われているものと言わなければならない。つまり、安全の問題ではなく、安心の問題に引き込むことこそが彼等にとって都合がいいことを百も承知でやっているということである。
この講演のなかで、長谷部教授は、現在、問題となっている緊急事態条項について、憲法に盛り込む必要性を否定し、現行の法律によって足り、仮に必要であれば、法律を制定すればいいだけ、という考えを示した。そのうえで、仮にこれを憲法に設けるとすれば、当然に裁判所のコントロールの必要性、統治行為論の廃止、裁判所の人事権に対する介入への歯止めがされなければならないとした。発動に対し司法がきっちりとチェックし、その際、司法が高度に政治的なものへ口を出さないという姿勢を改めることが求められ、さらに人事についても、国会両院の3分の2の同意で任命といった形が必要になるというのである。
いうまでもなく、この条件付けは、前記のような「手口」を権限拡大のために確信的にとる政権からすれば、都合が悪いことに属するはずだ。長谷部教授も言及しているが、統治行為論をやめることになれば、安保関連法制の違憲性そのものにも、きちんと司法の判断が下されることにつながる。
ただ、こうみてくると、やや奇妙な気持ちになる。「不安」というのであれば、こうした必要性も、条件も度外視した形で進められている、政権の「手口」そのものに、大衆が感じるべき大きな「不安」があるはずではないか、と。
不安は、知識量や情報量に大きくかかわる。そうしたものがまず、提供されることで大衆のなかに不安は芽生え、増大し続ける。知識量や情報量が「不安」を凌駕する地点も、多くの場合、存在するが、大衆はなかなかそこにたどりつけない。そこでは専門家の知見が重要な意味をもつはずだが、理解の難しさから手前で立ち止まらざるを得なくなるのだ。ゆえに不安は、延々とつきまとい、また、その現実をよく知っていて、それを利用する人間たちが現れる。
この現実を安倍政権の「手口」にあてはめると、何が見えてくるだろうか。自分たちに不都合な不安の喚起につながる、大マスコミの批判的論調を「公正さ」の名のもとに封じ、政権がいう一方的な「不安」を、「安全保障」の必要性に置き換える。そこでは、立憲主義の危機につながる、という、彼等にとっては喚起されては不都合な不安について、それこそ喚起する役割を担うはずの専門家の知見までも軽視する――。
彼らが煽る「不安」の前に、私たちは「備えあれば」で判断停止していないか。本当に私たちは、彼らの主張通り不安視しなければいけないのか。果たして安全の問題として対処できないのか。そして、本当に、今、危機感を持たなければならないものは何なのか。そのことを私たちは今こそ、自らに問い直すべきである。