「10人の真犯人を逃すとも、1人の無辜を罰するなかれ」という、有名な法諺ある。「疑わしきは被告人の利益に」という刑事訴訟の大原則につながるこの言葉は、「無辜の処罰」の絶対的な回避を、真犯人確保よりも優先すべきことを分かりやすく表現したものだ。また、そこから読みとれるのは、真犯人を追及することに目を奪われることがはらむ、無辜の犠牲という危険でもある。追及する側が、この言葉を胸に、何度でも自問すべきゆえんである。
最近の日本の司法で起こっていることは、少なくとも大衆の目から見れば、およそこの法諺とは結び付かないものばかりのように思えてならない。名張毒ぶどう酒事件の第7次再審請求差し戻し審での、再審開始決定取り消し。一審無罪、二審逆転有罪、最高裁で確定。再審決定後、取り消しのちに最高裁で差し戻し。この揺れ動く司法の「結論」を、少なくとも「疑わしい」状態だと見ない国民がいるのだろうか。
毒物をめぐる科学的な論争が存在し、裁判所がいったん出した結論へ、法的安定性から厳格な対応があったとしても、死刑が科されようとしているこの案件で、結果として、司法は「無辜の処罰」回避を、優先させる慎重さを持っていると見ることができるだろうか。この現実に直面している司法こそ、前記法諺を噛みしめる時と思える。
検察に目を移せば、郵便不正事件における証拠改ざん事件に続く、虚偽捜査報告書作成問題。後者については、小沢一郎・民主党元代表の起訴をめぐる検察内部の積極・消極両派の存在、証拠とはならなかった前者に比べて、後者は検察審査会が「起訴相当」という結論に反映した実害が出ているという違いなども取りざたされている。
しかし、これはいずれも国民からすれば、嫌なものを見てしまったとしか言えない話だ。追及する側が、罪を作ってでも犯人にするという姿勢は、いわば、前記法諺とは、最も距離があるものとしか見えない、司法不信につながる決定打といってもいい。
郵便不正事件を受けて、検察は信頼回復へ、「引き返す勇気」という言葉を使った。この「勇気」は、前記法諺につながる「勇気」でもあると同時に、検察自身が、この言葉によって厳しく律しなければならない現実を抱えていることを明らかにした。後者への検察のその後の対応を含めて、大衆はこの言葉をどう信用していいのか、戸惑うはずである。
さらにいえば、強制起訴の制度設計であるとはいえ、指定弁護士による今回の控訴は、弁護士の職責そのものについて、ある意味、大衆が混乱する要素を含む。訴追する弁護士の姿のなかに、冤罪主張事件で弁護士が強調する前記法諺の立場とは、全く異質なものを見てしまうからだ。制度が周知されていないこともあるが、テレビの出演者からは何度となく、これまでの経緯からして、なぜ、弁護士がそれでも控訴して、被告人の無罪を確定させないのか、理解に苦しむといった見方が示されていた。
ちなみに大マスコミも、小沢氏をめぐる裁判については、検察の姿勢を批判しつ、追及する検察審に温かく、強制起訴制度を傷付けまいとする姿勢で一貫している。裁判員制度時代の「改革」を評価する姿勢一辺倒のなかで、前記名張毒ぶどう酒事件では、刑事訴訟の大原則を掲げる大マスコミが、こと小沢氏の裁判をめぐっては、その一貫した姿勢のなかで、それに目をつぶっているように見えてしまう。そのことは、司法に対する大衆の目線に、いい影響を与えるとも思えない。
無辜の犠牲の絶対的回避へ、筋を通している司法――。多くの国民の目にしっかりとそう映る、あるべき司法と現実は、今、どのくらいの距離があるのだろうか。