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 国民の自己決定権を脅かすものが、国民自身であるという現実を、コロナ禍日本にあって、私たちはまざまざと見せつけられた。いわゆる「自粛警察」といわれる存在は、何も社会の中の特殊な存在ではなく、程度の差こそあれ、極身近に、それこそどこにでもいる存在であることを多くの人が感じたはずである。

 マスクの着用や「三密」回避といったことをめぐる、矛盾や疑問が生じても、それを不問にした心理には、多分にコロナウイルスの得体が知れない不安(とりあえず他に対策が考えられない)ということともに、前記したような圧力がかけられる国民の眼や声が大きく影響していたことは否定できない。「効果はともかく、みんながしているから」「他人の目が怖いから」と。

 この現象としての「自粛警察」を、社会学者の宮台真司氏は、「近代日本の劣等性」と括った。「『お上にすがる』人々が不安になって『お上に従わない』人をたたく」という、わが国で戦前から見られたものであるが、都市化と郊外化で共同体の空洞化が進み、人間関係に依拠できなくなるなかで進んだ感情の劣化であるとも分析している(10月15日付け朝日新聞オピニオン欄)

 この現象に、第二次大戦下日本の戦時総動員体制を支えた「隣組」を連想する人は少なくなかったはずである。そのことからすると、この現象を今回、国家がどこまで予想していたのか、あるいは予想以上だったのかというところに、推測を働かせたくなってしまう。

 そもそも今回のコロナ対策として政府や地方自治体が出した自粛要請には、その推測を駆り立てるものがあったといわなければならない。自粛はまさに自己決定に委ねられるべきものであるが、行政が期待したのは強制にかわる効果であった。つまり補償を含めた責任を回避できる、結果は自己責任に投げ返せる自己決定の建て前のうえに立った、最大限の「中止」「閉鎖」効果であり、それを取り持ったのが、戦時下さながらの、国民の相互監視・同調圧力という描き方ができるのである。

  宮台氏の分析に被せると、「お上」に対して依存する意識が強い人びとの矛先が、「お上に従わない人」に向けられる。そこにあるのは政府との命令関係ではなく、あるのは依存するがゆえの国民側の「忖度」だ。政府のコロナ対策には、国民のなかに大きな不満があったはずだ。しかし、同時に協力しない、「忖度」しない同国民が許せないという不満があったことになる。

 もし、どこかに今回の現象を「要請」の効果実験あるいは「自粛」に対する国民の耐性実験として、注目した人物がいるとすれば、そのなかにはこの結果を評価するものかいてもおかしくない気がする。「強制」という責任の所在がはっきりし、そのコストも予想される手段をとらなくとも、「要請」をもってして、わが国民は自主的に、諸外国にはない、政策への従属的効果を生み出す――と(「ゲーリングの言葉と『コロナ禍』日本」) 。

 「自己決定権」は国民にとって武器となる権利である前に、彼らにとって都合のいい口実化の武器になる危険があるということになる。

 そして、前記したように、根本なところで、国民の「お上」に対する依存心がこれらを成り立たせているのであれば、さらにそれは彼らに好都合である。その国民は、およそ権力者たちのそうした目論見を疑わないからである。

 今回の衆院選挙での自民党の絶対安定多数確保について、他の受け皿たり得ない野党の弱さが強調されているが、それでは説明しきれない、過去の不満・不安をまるで棚上げあるいは帳消しにするかのような、国民の中にある自民党政権への依存と期待の現実をみる。それを上回る依存と期待の受け皿になる野党がいれば結果は違うというのは、理屈としては正しいが、現実的な話ではない。というよりも、ある意味、国民に対して前記問うべきことを問わないことを前提とした理屈というべきだ。新たな権力に依存すれば、同じことはいつでも起こるはずである。

 緊急事態法制、ワクチンパスポート、あるいは憲法改正。今後、この国の国民の人権制約にかかわる論点が、さらに浮上する時に、この国民の傾向の危うさに、社会はもっと気付き、自覚する必要があるように思えてならない。



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