これほどあからさまな癒着の構造が、いまも確実に存在している現実。総務省の幹部らが首相の長男が勤務する放送関連会社との会食問題に続き、農林水産省幹部も前農水相と大手鶏卵生産会社前代表の会食への同席問題で、次々と官僚たちが、利害関係者による接待で処分される事態を、私たちはどう受けとめるべきなのだろうか。
1998年の大蔵省接待汚職事件の発生を教訓に、許認可を与える企業・個人を利害関係人として、そこからの公務員が受ける供応接待を全面的に禁止する国家公務員倫理法が施行されて、既に20年が経過している。処分された官僚たちが、これを知らず、違法性を認識していなかったとは、到底考えられない。
法の無力さと同時に、これが官僚にとって、「気の緩み」では説明できない、確信的行為だったととれることにより深刻さを覚える。
しかも、官僚だけの問題ではない。総務官僚にあっては、会食そのものに首相の長男という存在による、明らかな特別扱いであり、農水官僚も大臣に誘われた会食である、という。政治家とのつながりが背景にあることは明白なのである。
とりわけ、前者に至っては、安倍前政権でさんざん問題とされた「忖度」という現象が、ここでも浮かんでくる。「忖度」と「特別扱い」の蔓延は、よりこの国に根深く、深刻に存在しているとみなくてはならない。
倫理規定の形骸化という括りも見られるが、官僚の意識だけがそれを生んでいるのでは毛等ない。政治主導を声高に唱えた側が、この事態を生んでいることの責任を痛感すべきなのである。政治こそが、「忖度」と「特別扱い」を通用させている側であることを、改めて確認すべきである。
それは、とりわけ前記総務官僚の件が、一週刊誌のスクープや証拠音声によって、いわばぐうの音も出ない状況に追い込まれなければ、どうなっていたのか、という想像をすれば、なおさらのことである。これがなければ、この不正はこの世に今でも存在していなかったことになり、堂々と通用していたかもしれないということを、私たちは忘れてはならない。
菅首相は、長男の関与については、「結果的に」という断り付きで反省の弁は述べているが、総務省調査に対応をゆだね、既に同省を退官し、法律上処分の対象からもれた当時総務審議官の現・内閣広報官の続投も認めるなど、極力、政治の責任としてこの問題に対応しない姿勢にみえる。しかし、それを許しては、この事態が生まれた根本的な構造は何も変わらない。
「気の緩み」というよりも、十分不正を認識しながら、官僚たちは断れなかったのだろうとして、その点に関して、彼らの立場に同情するような見方もある。それでも彼らの官僚としての正義感が問われないことにはならないが、政治主導と言われるもののなかに、確実にそうした構造が出せき上がっていることに、私たちはもっとこだわらなければならない。
その意味では、前政権が積み残しているも森友、加計、「桜を見る会」といった「忖度」と「特別扱い」が絡む問題を、あくまで政治主導が生み出した負の問題として、その責任を問う観点からも徹底的に追及し続ける必要がある。