司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>



 なぜ、今、私たちは、こんな苦しい国会答弁を見せられているのだろうか。検事長定年延長問題をめぐる、森まさこ法相の、もはや異常といってもいい答弁。答えたくても答えられないことを問い詰められた結果、問題発言をして謝罪に追い込まれる。彼女は一国の法相であり、かつ、弁護士である。自分が国民の納得がいく答弁をしていないこと、無理をしていることは百も承知のはずである。

 法曹界で彼女を知る人の中からは、さすがに同情の声も聞かれる。もちろん、彼女が選んだ道であり、今でも選ぶことができる立場にはあるが、それでもこの声には、どこか本当の彼女は自分のやっていることのおかしさを理解し、立場上、成り行き上、さらにいってしまえば、これがたまさか安倍政権であったから、という「不運」によって極めて不本意に陥っている、というニュアンスが込められているようにとれる。

 彼女だけではないのである。森友・加計問題以来、この政権下で追及された政治家や官僚は、いつも苦しい答弁で、疑惑を煙に巻こうとした。あるときは「捜査」されることを、そしてあるときは森法相のように「個別の」案件であることを理由に。もちろん捜査されるとしても、自らの正当性を主張することはできるし、そもそも「捜査」に影響しないことまで、それが理由にされた。森法相に至っては、法解釈変更の理由が正当であるならば、ここは「個別の人事」に逃げ込んで答えなければ、逆に政権の「独裁」といわれかねない局面だ。

 国家公務員法の延長規定の検察官不適用に関する政府解釈を「現在まで続けている」とした人事院局長の「言い間違えた」発言も、ご本人がこれで筋が通ると思っていたとはおよそ思えない。

 彼らはみんな分かっているだろう。結局、私たちがずっと見せられているのは、政権への「忖度」であり、政治主導の成れの果てなのである。当然に分かっている彼らが、その不本意と不名誉を負っても、守らなければならない価値を見出した「忖度」がそこにあり、それを不正義の方向で引き出している政治主導の責任がそこにあるのである。

 国民に顔を向けて、民意を「忖度」すべき彼らは、いつしか国民ではなく政権を向いた。それで良しとしたのが、安倍政権の本質なのである。3月14日付け朝日新聞朝刊1面で、栗原健太郎・政治部長が書いている。

 「政権はこれまで、財務省の公文書改ざんや桜を見る会、検事長の定年延長問題など、規定や手続きを軽んじてきた。疑惑を指摘されると反論するが根拠は示さない。新型コロナの対応でも、イベントの自粛や一斉休校のように唐突に打ち上げ、国会や国民に説明を尽くす姿勢はうかがえなかった」

 今回の改正特措法に規定された緊急事態宣言には、首相や政権への信頼が欠かせないのに、これで大丈夫なのか、というのが記事の論旨だ。首相の自覚を促し、改めて国民の前で疑問や批判にこたえることを求めているが、この記事自体が列挙している、前記首相と政権の姿を見せつけられてきた国民としては、いささか虚しい呼びかけに読めてしまう。

 この政権は、まさに「国民の前で疑問や批判にこたえること」を優先しないばかりか、それを避けても通用すると、もはや確信的に考えている政権なのである。そして、それに合わせて冒頭指摘の答弁を含めて、政治家と官僚が動いているのだ。壊れたレコーダーのように、何度も意味のない答弁を繰り返し、追及をかわしさえすれば凌げる、私にはそれが許されている、いや、それが今の私に与えられた職責なのだ――。森法相をはじめ、この政権下で追及された政治家や官僚は、一面不本意だったはずの自らの言動について、何度もそう自分に言い聞かせたのではないか。

 しかし、あくまで通用するか、しないかを決めるのは私たち国民であり、そして通用させてきたのも、国民の責任である。彼らの不本意に同情する前に、私たちが今「独裁」を通用させようとしていることに、改めて強い危機感を持つべきだ。「不運」で片付けるわけにはいかない。



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