性的暴行を受けたとして民事裁判で訴えられ、先ごろ1審で賠償を命じれた被告男性ジャーナリストが会見で、原告女性ジャーナリストの態度に言及した部分がある。別の性被害者が、この原告女性が会見で笑ったりする様子を見て、本当の性被害者ならば、あのような表情はしないと証言したと紹介したのである。性被害女性の言とはしているが、反論記者会見の場で取り上げている以上、少なくともこうした見方を、この被告男性が有力視しているととられても仕方がない。
しかし、これを聞いて、当該事件そのものから離れて、別の不安がよぎった。こうした「らしさ」による「断罪」が、現実的にわが国ではどのくらいの影響力を持ち、大衆に浸透しているのかについてである。そして、そのことにこだわらざるを得ないのは、市民が良識と感情を明確に区別できるのか怪しいままで、刑事裁判の裁きの場に参加する裁判員制度が、この国には既に存在してしまっているからである。
もとより今回の被害女性の態度が、被害者らしいかどうかなどということ自体、およそ被告男性の言いがかりに近いものにしかとれない。しかし、あえてそれをまともに取り上げると、被害者が被害者らしくふるまうことが、真実か否かの基準になるのであれば、演技力の優れた人が、どんな結論にも、それを基準とする人を誘導できてしまうことにもなる。非論理的なレッテル貼りができる状況は、逆にそれが利用されるリスクだってあるのである。
今回の会見での、この「被害者らしくない」という見方の言及には、当然、ネット上でも批判の声が溢れている。しかし、あえていえば、こうした見方をする大衆の感情論もまた、確実に存在している。現に、この原告ジャーナリスト女性は、以前、会見での服装で、全く同じような「らしくない」論調の標的になった。
被告男性ジャーナリストは、自らの言及の非論理性に気付きながらも、一定限度社会の中で、こうした見方に同調する感情論があることを見抜き、そこに訴えようとしたのではないか、と思いたくなる。
ここが前記不安のもとである。刑事裁判において、当然、こうした予断は排除されなければならないが、果たして裁判員制度において、それはどのように排除されるのか。いや、もっといってしまえば、問題はそういう感情が現に存在している社会で、より市民感情が反映する制度を刑事裁判に導入しても大丈夫なのか、という不安なのである。「無実の者らしくない」「無実の者らしい」という イメージに、参加市民は何をもって左右されず、判断できるのだろうか――。
感情に訴えられたら、より大きな声で言われたら、という議論は、裁判員制度と同時期に導入された、犯罪被害者参加制度との関係でもあった。市民感情が被害者感情により強く共鳴し、量刑を含めた結論に影響することの危うさ。これは前記「らしい」「らしくない」のイメージに対する感情が反映する危うさと、実は同一であるように思える。
これまでの職業裁判官による裁判が完ぺきであるというわけではもちろんない。ただ、感情と良識を現実問題として峻別できない市民参加のリスクは、制度導入ありきで、民意反映のメリットばかり強調された制度にあって、きちっと押さえられていたか、また社会がそのことに目を向けているかの問題である。結果の重大性にも、あるいは被告人のイメージにも引きずられず、法に基づいて冷静に判断すべき刑事裁判で、職業裁判官の職業的自覚よりも、参加市民の「良識」は本当に信じられるのか、何をもって信じていいのかという問いかけになる。
こういう話になると、市民の良識を馬鹿にするな、軽視するなという意見も返ってきそうである。しかし、そもそもこの制度は、こうした点を十分踏まえて導入されたとはいいにくい。ネット上でイメージによって、当然のように人を「断罪」している市民にも、裁判員候補者名簿への記載通知は届き、感情と良識をごちゃまぜに、胸を張って裁きの側に登場するかもしれない。その不安を想定しない、目をつぶる制度だとすれば、やはりそれでもいいのかを問わなければならないはずなのである。