自民党派閥の政治資金パーティ「裏金」疑惑をめぐる事件で、検察側が安倍派幹部の立件を断念する方向である、との報に、ネットのコメントには、国民の失望の声が並んでいる。その中には、検察に対する率直な失望もあるが、それもさることながら、むしろ、結局、彼らが「逃げ切れてしまう」日本の政治の現実そのものへの失望ととれるものが目立った。
今回、注目されていたのは、政治資金規正法違反(不記載、虚偽記載)での会計責任者との共謀の点。その立証のハードルは決して低くないことは、既にメディアにコメンテーターとして登場した法曹らが、示唆していたことではあり、期待感はともなく、「やっぱり」という落胆が、そこには伺える。結局、会計責任者だけが責任を問われ、政治家はまんまと「とかげのしっぽ切り」よろしく、逃げ切れるのではないか、という予感の的中である。
検察が状況証拠を積み重ね、共謀の事実に迫ることはできなかったのか、という声ももちろんある。国民の感覚といってしまえば、一会計責任者が、派閥幹部の意向を踏まえず、あるいはそれを確認することもなく、「勝手に」こうしたことを実行した、というか実行できるなど、多くの国民は思っていない。だから、国民が本当は存在したはずの「共謀」が問われなかっただけ、と捉えるのは、至極当然のことだ。
政治資金規正法が「ザル法」だからとか、連座制適用など同法改正への弾みをつける狙いも検察にある、という指摘もある。もちろん、それはこの問題を考えるうえで、重要なポイントだ。しかし、それでも忘れてはいけないのは、日本の政治家の意識として、これが罷り通ったということだ。有り体にいえば、「ザル法」ならば、やっても構わないという意識の持ち主であった、という厳然たる事実の方である。
ばれなければやってもいい、それならばやらなければ損である、という感覚は、およそ犯罪に手を染める人間たちの発想といってもいい。残念ながら、われわれが選んだ代表たちは、そうした自分を政治家のあるべき姿に照らして、自分たちを律することができない人であった、つまりは、発覚さえしなければ、国民を裏切り続けられる人であった、ということなのである。
「ザル法」を修正し、彼らいわば強制的に制御することもさることながら、このことがこの事件の教訓として、まず、私たちが向き合うべきことなのではないだろうか。
「もう任せておけない」。前記失望のコメントの中に、こういう趣旨の声が混じっている。この流れの繰り返しのまま、政治家も政治も変わらない。検察や現行法制度が期待できないのであれば、やはり我々が審判を下すしかない。政治家に有利な状況を政治家に作らせないために、政治家も法制度も追求すべきメディアの姿勢も、我々自身が監視しなければならない――。
政治家への失望も、検察への落胆も、分かり過ぎるど分かるが、この考えこそ、この事件からまず引き出すべき、最も健全な、そして最も有効な教訓であることに、まず、多くの国民が気付かなければならない。