日本社会に「貧困マジョリティ」という新たな階層が生まれてきているという。そう指摘するのは、経済評論家の内藤克人氏だ(朝日新聞1月8日朝刊「再生 日本政治」)。基礎的な社会保障からも排除された彼らを生み出したのは、グローバル化、マネー資本主義、市場原理主義、そしてそれらが生み出している競争原理主義である。
内藤氏は、前記「朝日」記事中で、大阪市の橋下徹市長の「ハシズム現象」も、この「貧困マジョリティ」の心情的瞬発力に支えられている面が大きい、としている。しかし、小泉改革以降、競争原理主義のなかで生まれ、辛酸をなめてきたともいえる彼らが、なぜ、同主義のうえに立っているとしかみえない橋下氏を支持するのか。
内藤氏は、「うっぷん晴らし政治」ということを挙げている。
「(貧困マジョリティは)米国はじめ国内外の最強の秩序形成者に抵抗する力もなく、生活に追われて政治的な難題に真正面から対峙するゆとりもない。同時に、精神のバランスを維持するために『うっぷん晴らし政治』を渇望する。政治の混乱を面白がり、自虐的に、極めて反射的に、表面的に評価して、選挙権」を行使する」
地方公務員バッシング、人件費削減などの先に待っているものは、実は彼ら「貧困マジョリティ」の生活を大きく変えるわけではく、むしろ、このままの市場原理主義や競争原理が深化するほどに、状況は悪くなりかねない。閉塞感がよりまずい方向に、国民とこの社会を導くことになるということである。この危険を内藤氏も言う。
「『政治のリーダーシップ不足』と言われるが、民主政治を基盤とする国でのヒーロー待望論ほど異常なものはない。日本古来の『頂点同調主義』に加え、異議を唱える者を排除する『熱狂的等質化現象』が一体となる。『うっぷん晴らし政治』の渇望を満たそうとすれば、1930年代の政治が繰り返される。グローバリズムが生み出した『貧困ファシズム』の培地となりかねない」
さて、10年前に、規制緩和等の経済構造改革の行きつく先として、その路線が敷かれた今回の司法改革は、今の状況をどこまで描き込んでいたのだろうか。事前規制・調整型社会から事後監視・救済型社会へ転換される先に待っている多くの紛争、それを解決するための司法、質と量を伴った法曹の存在。日弁連・弁護士会は、そこに現実的に救済しなければならない存在を見て、この「改革」を「弱者のため」「市民のため」のものと、位置付け、会員の協力を呼びかけた。
しかし、現実は果たしてそうだったのか。膨れ上がった弁護士の数はこの社会で支えきれず、逆に彼ら自身に「競争」と「淘汰」が突き付けられている。その現実は、本来「弱者のため」に働くはずの弁護士たちの居場所を逆に奪い、マネー資本主義の側に「使える」弁護士を市場原理主義・競争原理によって、選別する方向で、実を結びつつあるように見える。
いまだ「貧困マジョリティ」が弁護士を攻撃対象としているとはいえないまでも、弁護士の競争・淘汰をいい、「儲けている」「甘やかすな」「あぐらをかかせるな」と声高にいう人間たちは、自らが「うっぷん晴らし」をして溜飲を下げているだけでなく、当然、その救済されるべき「貧困マジョリティ」にその賛同を呼び掛けているようにみえる。
しかし、競争によって弱者に良質なサービスが提供されるなどというきれいな絵にはならず、弁護士自身が競争のなかで生き残りをかけた経済効率を求める結果、結局、弁護士を追い詰める先にまっているものは、救済されるべき彼らの利にはならない、という点で、前記「うっぷん晴らし政治」の結末と一致する。
今、「改革」が見直されようとしている時、この「改革」を「弱者のため」「市民のため」と位置付け、その成果を拾い上げることよりも、一体、この「改革」の本質が何で、その結果、現実的に何がもたらされつつあるのか、まず、そのことを直視するところから始める必要があるように思える。