裁判員制度に、驚くような内容の新聞記事が出ていた。裁判員裁判に参加した人たちで作る「裁判員経験者ネットワーク」のメンバーが1月27日、横浜地裁を訪れ、制度の改善点などをまとめた提言書を地裁所長に提出したことを伝えるものだ(朝日新聞1月28日朝刊、第2神奈川面)。
提言は、検察の原則全証拠開示、死刑の情報公開徹底などを求め、これまでに4地裁に提出していたものだが、驚いたのは、今回横浜地裁提出後に、裁判員に参加した22歳の大学生が取材に対して語ったとされる次のようなことはである。
「死刑という重い判断をするのに、評議の時間が足りなかったという思いはある」
「判決日が指定され、その枠組みの中でやらなければいけないという意識があり、評議の延長は言い出しにくかった。判決には納得しているが、当時はもっと話したいと思った」
「死刑制度について簡単な説明はあったが、深く知ることなく判決を決めた」
「朝日」の記事は、だから提言にあるように死刑の情報公開が必要、と言いたげである。ただ、もし、この朝日が引用したような発言が現実になされたとすれば、それとは別の問題がここにはあるはずだ。いうまでもなく、最も重く、そして取り返しがつかない死刑という刑罰が下される、これがその過程として許されるのか、ということである。
評議の時間は十分でなく、指定された判決日の枠に気おくれして評議の延長も口にできず、制度の実態が、果たしてこの罪にふさわしい刑罰かも分からないまま、死刑が下される――これが現在、この国で進行している裁判員裁判であるという事実である。
これは、全国紙とはいえ、地方版に2段見出しで扱うようなニュースなのだろうか。申し訳のように「納得している」と書かれているところが、返ってこの問題を記者がどこまで認識しているのかで疑いたくなってくる。
これは、参加した裁判員ではなく、制度とそれを推進した側の責任というべきなのは明らかだ。裁判員裁判で死刑判決が出されてしまった今、こうしたことが取り上げられている奇妙さを考えなくてはいけないだろう。市民が参加する裁判で、彼らが当然、向き合うことになる死刑が問われる案件。その時にどういうことが起き、現実問題としてどういうことがクリアされないまま、死刑判決が下されてしまうのか、ということは、今、話し合うことではない。
制度設計段階で、当然、考えられていなければいけないし、クリアできない以上、先に進めるわけにはいかないはずのものだ。そもそも大マスコミを含めて、制度推進者たちは、死刑制度と裁判員制度の問題を国民に提示することを、極力後回しにしたきらいがある。言うまでもなく、制度スタート前の世論調査で、国民の不参加への意思がはっきりしていた中、肉体的にも精神的にも最も深刻な負担を国民に強いることになる死刑というテーマの投げかけが、制度への抵抗感を増幅させることにつながる恐れがあったからである。
結果、死刑制度と裁判員制度について、突っ込んだ議論と国民への周知がなされなかったように見える。今回の経験者の発言は、そのことを端的に表しているように思う。
そして、このことは、裁判員制度導入ありきの議論が、いかに「裁かれる側」を視野に入れていないか、もはや国民参加の大義の前に、いかに本来の裁判の使命までがおろそかにされているか、を物語っているともいうべきだろう。
われわれは、裁判員制度が続くことによって、これからも延々と、「あってはならない」裁判を見ることになるのだろうか。