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 日本学術会議の新会員任命見送り問題で追求される菅義偉首相が、こともあろうに「多様性」という言葉を、その弁明に持ち出してきた。「多様性が大事であることを念頭に、私が任命権者として判断した」と。

 「多様性」という言葉の選択が、この状況でふさわしくないのは、多くの人間がすぐに分かることではないだろうか。普通に考えて、「多様性」をいうのであれば、さまざまな意見をもった人材の受け容れにつながっていいはずなのに、今回問われているのは、「拒絶」の理由であって、使い所が逆の印象を受ける。

 百歩譲って、推薦された6人の学者が「任命されなかった」ことの理由として、「多様性」を挙げるのであれば、同分野同研究、あるいは同主張の学者が、既に会議内に沢山いて、よりその幅を広げるため、とでもいう状況があればまだ、理解の余地があるかもしれないが、そういう話でもない。大学や世代、性別、国立大・私大といった属性でみても、組織内の偏りを懸念して、あえて排除される理由につながるものも見出せない。

 見送られた学者が、安全保障関連、特定秘密法、共謀罪で、共通して政権の方針に反対したという「前歴」を理由に、排除されたのではないか、という疑惑をかけられている問題なのである。「多様性」をいうのであれば、そういうスタンスの彼らも、受け容れられていい、という方向に誰もが考えそうな話だ。

 むしろ、この局面で「多様性」という言葉が、平気で持ち出されることの方が、注目しなければいけないように思えるのである。なぜ、彼はここで「多様性」という言葉を選択したのだろうか。いうまでもなく、この言葉は、近年、社会の在り方や企業のスタンスを語るうえで、極めて肯定的に広がりをみせているものだ。

 肯定的イメージの言葉を、この問題に持ち出し、なんとか任命権者としての選択の正当性につなげようとした。ところが、前記したように、この言葉はすぐに今回の事態を正当化しきれないどころか、逆の捉え方をされてもおかしくないことが分かってしまう。

 そこをとらえれば、首相側の弁明の手詰まり感も伝わっては来る。この問題を取り上げた、10月31日付け朝日新聞の社説は、答弁の「破綻は明らか」とした。だが、一方で、奇妙な気持ちになってくる。この局面で、首相が本当にこの言葉を、どういう趣旨で的確なものとして選んだのか、本当に苦し紛れが生んだ「ミス」だったのかということへの疑問である。

 ことによると、そうではなく、一見して使い所がおかしいと分かってしまうこの言葉でも、本気でこの局面をなんとか逃げ切れると考えていた(いる)のではないか、ということである。むしろ、こちらの方が、ことはより深刻であるはずなのである。なぜならば、言うまでもなく、「多様性」の言葉の意義にとどまらず、国民に対する「説明責任」そのものを、彼が軽視、もっと強いことをいえば、冒涜していることにもなりかねないからだ。

 安倍政権以来、この国の政権は、何度となく「説明責任」という言葉を、社会から突き付けられたが、私たちが見せられてきたのは、彼らの言葉とは裏腹に、それに真摯に向き合うのではなく、国民の納得をよそに、いかにこの局面を逃れられるかに腐心する姿だった。「国民は忘れる」などという彼らの本音も流れてきたが、「説明責任」の彼らの中での軽視、それが社会に通用するとの姿勢があからさまになってきたのである。

 国民の側も、これまでのところ、結果的にこれを通用させてしまっている現実は否定できない。そして、これこそ新政権が、安倍政権から継承しているととれる「成功体験」なのである(「安倍政権の『負の遺産』としての『成功体験』」)。

 菅首相は、NHKテレビの報道番組で、この問題で説明を求める国民の声について、「説明できることとできないことがある」と述べた。既に、多くのことは彼の中で「説明できない」ことになっており、可能な範囲のことに「多様性」という説明があったことになる。

 早くも彼の答弁能力を問題視する声も伝えられているが、そうではなく、言い回しの問題でも、言葉選びのミスでもなく、それが確信的に、繰り出された事実から、この政権をとらえるとともに、まず、私たちがどう侮られ、侮られようとしているのかに思いを致すべきなのである。



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