安全保障関連法案の採決をめぐり、国民が「忘れる」という認識が政権側にあるという見方がしきりといわれた。出どころはよく分からないが、一部メディアが、強行採決をしても、その後の「3連休に入れば国民が忘れる」という「作戦」があると報じたこともあり、ネットでも「国民をナメている見方」として、政権の対応を批判する世論の火に油を注ぐものになった。
具体的にこういった表現を政権・与党側の誰かが本当に言ったのか、その真偽は分からない。しかし、結果としてこの法案をめぐり、政権とこの法案を推した国民の代表が行った、民意と専門家の知見に対する、あからさまな軽視(「9月19日の『屈辱』」)を伴った強行を見せつけられた国民からすれば、もはやこうした心底としか理解しようがない。
当選が死活問題である彼らが、ここまでの強行をやってのけるには、当然落選や下野の「不安」が払拭されている必要がある。「忘れる」は、激しい反対世論に「不安」を覚える身内に向けた叱咤激励として発せられたという想像は容易につく話だったのである。
ただ、そうだとしても、素朴な疑問を持ってしまう。この国民世論に対する、まさに侮った見方が、今回、当たっているとはもちろん思っていないが、法律専門家たちの「違憲」主張をどうとらえているとみるべきなのだろうか。憲法学者の大多数、さらに多くの弁護士、元最高裁判事までが「違憲」といったことを「忘れる」というのだろうか(「安保法案反対、学者・日弁連共同記者会見で示された認識と現実」)。
これもまた、軽視と括ってしまえばそれまでだが、「忘れる」世論の前に、専門家の知見など、手も足もでないと見たか、現実の先行が専門家を推し黙らせ、やがて変節することを期待しているのか。それとも、強行に目が奪われた結果、全く頭が回っていないのか――。
衆院憲法審査会での「違憲」見解で、議論の潮目を変えたといわれる長谷部恭男・早稲田大学教授が9月27日付け朝日新聞「考論」で次のように語っている。
「少なくとも、集団的自衛権の行使は憲法上許されないという、9条解釈のコンセンサス(合意)は壊れていません。法律問題が生じた時、ほとんどは条文を読めば白黒の判断がつきますが、9条のように条文だけで結論を決められない問題が時々出てくる。その時、答えを決めるのは、長年議論を積み重ねた末に到達した『法律家共同体』のコンセンサスです。今後も、昨年の閣議決定は間違いだ、元に戻せと、あらゆる機会と手段を使って言い続けていくことになります」
対論相手である杉田敦・法政大学教授がこの発言につなげ、推進側が、最高裁判決が出るまでは、法律家でなく政治家が答えを決めると主張し、裁判になっても、最高裁は憲法判断を避けるだろうとタカをくくっている、という見方を示したが、長谷部教授は、これが彼らの「希望的観測」であり、「法律家共同体のコンセンサス」を甘く見過ぎている、と喝破している。
政治権力を縛るために憲法がある以上、いくら民意で選ばれた代表であっても、改憲手続きによらない限り、彼らが勝手にその内容を変えられるわけがない。「法律共同体のコンセンサス」が突破されるということは、まさにその歯止めたる憲法「決壊」による「独裁」の赤信号である。
そのことは、今回、多くの国民がはっきりと認識したと思う。前記対論で杉田教授も「立憲」か「非立憲」かというこれまで私たちの社会でこれまで十分可視化されていなかった対立軸が今回、はからずも見えてきた、としている。長谷部教授も「安倍政権の『教育効果』」という皮肉めいた表現を使っているが、デモの広がりを含めて、日本には立憲主義者が沢山いることをわれわれは知り、集団的自衛権行使の是非を超えて、確かに立憲主義の重要性についての認識は深まったといえる。
そのことは、成立してしまったという事実からくる「無力感」よりも大きな危機意識を多くの人のなかに目覚めさせた。「忘れる」ことを期待した彼らは、大きくそこを見誤っている。「法律家共同体」は、サイレンを鳴らし続けなければならない。