「改革」を推進した側、旗を振った側に、やはりその結果についてのフェアな評価は、今後も期待できない、ということだろうか。司法制度改革審議会意見書公表から20年が経過した司法改革をめぐる論調の現実を見てくると、残念ながら、そういう印象を強く持つ。
「改革」の成果が強調されるのはいいとしても、想定外の結果に対しては、しばしば「未完」「道半ば」という言葉が被せられ、未来に期待をつなげようとする。「改革」を反省し、課題を抽出し、新たにそれを乗り越える形を模索するのは当然とされるかもしれない。
ただ、そこにはどうしてもアンフェアなものが目に付いてしまう。想定外の結果はなぜ生じたのか、それは「改革」の基本的な発想や制度設計の問題に起因しないか、そして想定外が生み出した「負の遺産」と成果とされる部分の対比において、「改革」は評価されているか、あるいはその成果も、本当にこの「改革」の発想と手法によってしか生み出されなかったのか――。
当たり前のことなのかもしれない。なぜならば、これらはより「改革」の根本にメスを入れる検証になるからである。「改革」は正しく、その根本理念や基本的な制度設計の正しさにしがみつく以上(改革推進者らにそういう思いがある以上)、場合によっては自己批判につながる、そうした方向は選択されにくいということである。
しかし、言うまでもなく、本来彼らには、「改革」を推進したことに対しても、それが生み出した正負どちらの遺産にも責任がある。また、旗を振った大マスコミには当然、報道機関としての責任もあるはずだ。ポジショントーク、責任回避という疑いに背を向けるだけでは、本来済まないはずなのである。
「司法改革20年 未完の歩み つなぐ使命」と題し、朝日新聞が久々に司法改革関連の社説を掲載した(6月13日付け)。ご多分にもれず、タイトルで「未完」と振り、文中でも「改革は道半ば」と評した、この社説は、まさに巧みに焦点がずらしての、「改革」の結果に対する、アンフェアな評価を印象付けるものだった。
法律家の増員、裁判員制度導入、法テラス設立が制度的に実現し、2000年から2.5倍近くになった弁護士増員で弁護士過疎が解消、「司法の使い勝手がよくなった」――。およそ成果の話はここまで。「法の支配」の貫徹の観点で、「寒々とした光景が広がる」として、検察人事、日本学術会議会員選出で「内閣が万能者のように」ふるまったことを歎き、司法のチェック機能強化の必要を言ったり、臨時国会を召集しなかった内閣の行為の違憲性が問われた裁判で本質に立ち入らず退けた司法の姿勢を問題視する。
重要な問題であることには、もちろん異論がないが、司法改革の本筋からはややずれ、むしろこの国の政治的な課題として、まず取り上げていい視点だ。
一方、本筋については、裁判員辞退率が昨年66%になったことに触れ、「国民に支えられた制度といえなくなる恐れをはらむ」としてみたり、法科大学院が「混迷から抜け出せない」とし、「たくましい法曹を育てるという設立の意義に立ち返り、優秀な人材を司法界に送り出してもらいたい」などと、さらっと言及するにとどめている。
これは、一体どう理解すればいいのだろうと立ちつくしてしまう。「いえなくなる」どころか、もともと国民に支持されていない制度を導入ありきで進めた裁判員制度の現実、なぜ法科大学院が混迷に至ったか、設立の意義に立ち返れば、優秀な人材を送り出せる制度なのか――。展開されているのは、そうしたことに立ち入らないことを前提の話である。
あたかも「改革」の課題を提示しているようでありながら、「改革」の現実を知っていれば誰でも分かるくらい、その姿勢は明らかにアンフェアなものである。「送りだしてもらいたい」という、生ぬるい期待感の提示で、この「改革」の「未完」「道半ば」を本当に正当化できると思っているのか、と言いたくなる。
多くの読者は、この記事を朝日の狙い通り、さらっと読み、これらの朝日の期待にこたえるものを、この「未完」の「改革」の先に描こうとするのかもしりない。しかし、そこには、もはやこの社説の罪深さのようなものすら感じてしまう。朝日は、「不断の検証と見直しに取り組む」として、前記「意見書20年の節目を、決意を新たにする機会としたい」とキレイに結んでいるが、残念ながらに新たな発想に立つ機会にはなれない「改革」の現実の方を見てしまう。