この国の政治的リーダーの一人として、再びスポットが当てられることになった安倍晋三という人物。政権奪還の現実味から再びスポットを当てられることになった自民党。そして、その光の輪のなかに、今、突如として、浮かび上がっているものが憲法改正である。
一思想的傾向のある政治家の台頭で、憲法改正が国政選挙での争点になるかならないかまでが取りざたされる状況の、最も恐ろしいのは、それが実は社会の要求と隔絶しているところというべきかもしれない。それは、彼以外の、今、注目されている政治勢力を見回しても、どれを選んでも改憲に行きつくような今の状況についてもあてはまる。つまりは、国民の意思が反映しない形の改憲の環境を、国民によって選ばれたと胸を張る政治勢力が着実に固めようとしていることを意味する。
国内的閉塞状況を打破してくれる期待感、領土問題がかきたてるナショナリズムと脅威。そうした国民感情の「受け皿」のような顔した人々が、実は長く持ち続けてきた彼ら自身の欲求を、虎視眈眈と貫徹しようとしているのである。
政権に今、最も近いとされている自民党は、政権公約に堂々と自衛隊を「国防軍」とすることを打ち出した。この名称は今年4月に自民党が7年ぶりに発表した憲法改正草案に盛り込まれたものだ。2005年にまとめた新憲法草案では「自衛軍」という名称が挙げられ、今回の草案の当初案ではそれが維持されていたものが、「国家防衛」を強調する形で、この名称に変えられたといわれている。
安倍晋三・自民党総裁は、自衛隊=軍だから軍を持てないととれる憲法9条自体を現状に合わせる、つまりは、合憲とすること自体が詭弁となる状態を改めよ、という立場のようだ。だが、名称変更自体の積極的な意義については、疑問がある。それは、もちろん58年前に、あえて侵略戦争への反省から「軍」ではない組織名称とされたことの意味、そしてそれが一貫して変わらずに使われてきたことの意味が、今日、消えたという根拠をどこにも見つけられないということではある。
ただ、それもさることながら、この「国防軍」化に伴い、武器使用基準など戦闘行動要領を定めた交戦規定の整備もいわれているのを見ても、実は見逃せないのは、やはりこの名称変更の意義は、きっかけではないか、ということだ。つまりは、「軍」という名称に執着することそのものが、「戦争できる国」への準備ととれるのである。そして、それは集団的自衛権の行使可能化というもう一つの公約によって、「アメリカとともに」戦争に踏み込む日本の未来図をより具体的に浮かび上がらせているといっていい。
これらは、彼らの欲求の貫徹である。かつて哲学者の久野収は、「戦争の準備は平和の間も休みなくつづけられているのに、平和のほうはひたすら環境として享受するだけ」だ、と言った(「戦争ではなく、平和を売るのはむずかしい」)。瞬時も怠ることなく続けられている戦争の準備に比べると、将来に向け努力によって維持されるはずの平和の確保へ取り組みは劣っているということである。
もちろん、争点化しない、争点化することを求める声が出ないことが、憲法改正への等身大の民意であり、そのことを政治がむしろ無視することは許されない。ましてムードで傾斜する改憲などというものは、あっていいわけがない。しかし、彼らの持ち続けてきた欲求が形として堂々と表明され、政権公約として掲げられている現実に対して、私たちの社会が十分な緊張感と問題意識を持って臨んでいるのかということは、やはり問われなければならない。