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 近年、大手メディアの姿勢を疑問視する声に出会う機会が増えている。インターネットの普及により、個人も含め発信者の幅が格段に広がり、さまざまなソースの情報を国民が大マスコミの報道より早く接することになり、大マスコミの存在意義が改めて問われたことも背景にある。

 その新たな「競合」関係の中で、メディア側から出される弁明のような優位性の主張は、「正確性」であったり、「責任」であったり、あるいはそれらに基づく「分析力」であったりもした。匿名性の問題はもちろんのこと、組織的な事実の検証体制に裏打ちされた「正確性」と「責任」において、そして仮にスピードで劣っても、分析・論評において、これまではメディア側の存在価値をかけた主張にも分があるようにとれてきた面はあった。

 しかし、一方で、いまや専門家を含めたさまざまな実名の意見に幅広く、個人が自由に、主体的に情報に接することができるネット空間にあって、国民は前記「正確性」や「責任」の問題、つまりあたかもネット空間の情報が、おしなべて不正確であるとか、無責任であるといった決めつけは困難になってきたし、それは分析・論評についても同様である。

 そこでメディア側が逆に問われ出しているのは、一つには中立性だろう。つまり、いうまでもなく、実は今や大衆は、前記の通りテレビ、新聞といった旧メディアよりもネットによって、幅広い情報に接することができる。それは、別の言い方をすれば、広い判断材料を得られる環境を手に入れたということだ。

 それに対する旧メディアは、その判断材料の提供に制限的であるといってもいい。自分たちは、改めて前記のような優位性、あるいは権威として、それを取捨するのが役目であるかのように。ここで、もう一つの疑問が湧いてきてしまう。大手旧メディアは、その情報の受け手である大衆を、どのように見て、どんな存在であることを前提に情報を発信しているのか、ということについてである。

 それは、今回の新型コロナワクチンをめぐる報道で、顕著に問われ出したように思う。新しい動きとして今月から始まった「定期接種」と新たに加わった「レプリコン」といわれる自己増殖型ワクチン。大手新聞社の社説には、次のような表現が見られる。

 「自己増殖型ワクチン昨年、日本で初めて承認され、国内で調達可能な選択肢が増えたことには意義がある」

 「海外で実施された臨床試験では既存のmRNAワクチンに比べ、作られた抗体の持続期間が長いという結果が出せている。ただ、体内に入ったmRNAはこれまで『短期間で分解される』(厚生労働省新型コロナワクチンQ&A)と説明されてきた。不安を感じる人がいてもおかしくない」

 「わかりやすい表現での発信に努めるだけでなく、詳細な情報が欲しい人には、臨床試験の結果や根拠になる論文にアクセスできるような配慮が求められる」(朝日新聞10月4日社説)

 「メッセンジャーRNA(mRNA)型は何度も打つと免疫のバランスを崩すなど中長期的な健康への影響を懸念する専門家もいる。接種の判断に迷ったら健康状態や病歴を把握するかかりつけ医に相談することだ」

 「ワクチンに反対する人や一部の医療関係者に使用を控えるべきとの反発の声もある。製薬会社は安全性や有効性を、国は海外での実績のない新タイプを使う理由を、丁寧に説明する必要がある。ワクチン忌避の風潮を社会に広げてはならない」(日本経済新聞社9月30日社説)

 なんとなく飲み込んでしまう読者もいるかもしれないが、大衆の不安に寄り添うような姿勢を取りつつ、根本的な問題性について深堀することなく、「接種ありき」の姿勢を共通して貫いている。日経はかろうじでmRNAを危険視する専門家がいることを伝えている分、朝日よりもましという評価はできるかもしれないが、最後にはワクチン忌避の風潮を広げてはならない悪と決めつけてしまっている。

 この論調は、既にワクチンに対して不安であったり、接種に懐疑的な多くの人たちに、何も訴えない記事というべきだろう。不安の根拠となる情報を論評どころか取り上げもせず、かかりつけ医に聞け、とか、利益確保を背負っている製薬会社や、その言い分では、さんざん国民は裏切られてきた、国の安全性・有効性の「丁寧な説明」に丸投げしたり。メディアとして、これまでの薬害に関する教訓を何も踏まえていない、まるでそんな過去はなかったかのような姿勢である。

 ここで疑いたくなるのは、やはり彼らの前提としている大衆である。彼らは、大衆を、自立した個人の集まりとして見ているのだろうか。公平な情報を提供し、彼らの判断にゆだねる。あるいはそのために、彼らが公正に判断できるための材料を提供するそうした関係性。あえて多数・少数意見にかかわらず、両論併記して、自立した個人の判断にゆだねる姿勢。そのための彼らの「知る権利」であるという発想--。

 あたかもここで不安要因に言及すれば、彼らがあってはならないと前提的に決めつけている「ワクチン忌避の風潮」に傾く。だから我々が正しく「誘導すべき」というのであれば、逆にいうとメディアはあらかじめ大衆をそういう存在として見ていることになる。「接種ありき」の方向で、「臨床試験の結果や根拠になる論文」へのアクセスの必要性は指摘しても、逆側の論文へのアクセスをフェアに提示しないことが、それを物語っている。

 これまでのワクチン接種の報道姿勢に対し、それでも一部専門家の中には、メディアが「不安を煽っている」「国やWHOなどの公的機関が科学的知見に基づいてワクチンを推奨しているとき、メディアが推奨できないというのは、安易な『中立性』毒されすぎている」という、にわかには信じられないような意見があった(「マスメディアはなぜワクチンへの不安を煽るのか 安直な『中立性』の陥穽」原田隆之・筑波大学教授)。

 その一方で、コロナ禍で人々の独善的な正義感を反映させた「同調圧力」がワクチンへの中立的な報道へのバッシングにつながり、メディア側の削除・謝罪につながっていることも報告されている。「知る権利」を主張する大衆ではなく、「不安なことを耳にいれるな」という、「接種ありき」に既に染まった大衆を前提にすれば、これまたメディアは委縮し、そしてフェアな情報提供で筋を通すことに後ろ向きになるだろう(「ワクチン接種報道の陰に潜むのは ――」斎藤貴男氏)。

 自立した大衆が判断できる環境の価値よりも、誘導されてしまう大衆を前提とした環境の価値にこだわる発想。メディアだけでなく、大衆もまた、この結局、我々のためにはならない、危険な発想と、この歪な関係について、冷静に考える必要があるはずだ。



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