まるで悪い冗談を見ているようである。「桜を見る会」の前夜祭をめぐり、安倍晋三前首相側の、費用の一部負担があったというのである。東京地検特捜部の調べに対し、安倍前首相周辺が既に政治資金収支報告書不記載について、違法性の認識を認めたとも報じられている。
安倍事務所に一切収支はなく、補填した事実も全くない、価格設定はホテル側で、安倍事務所の関与は「段取りの調整で、契約上の主体ではなく、契約の当事者は個々の参加者」――これらの前首相の答弁が、虚偽ということになる。そして、まさかと思ったが、やはり今のところ、前首相本人は知らなかったと、わが国の政治家ではおなじみの「秘書が」で通す構えのようである。
いまさらいうまでもないが、当時、あれほど国会で安倍前首相は追及されていたのである。その立場への自覚があるならば、こんなことにならないために、入念な確認をしてもよいはずである。そもそも知っていなかったというのも、にわかに信じられないが、本当に知らなかったとしたならば、その姿勢という意味では、相当に国会を軽視しているといわれても仕方がない。
しかも、この事態にも与党は前首相の国会招致に応じない。前首相の国会軽視の深刻さを認識していない。そもそも消極姿勢といえば、官房長官だった現首相を含め、当時の与党議員全員の、この件に対する姿勢が問われてもいい。
安倍政権で散々見た、捜査中を理由にした説明の拒否姿勢を、今回、安倍首相自らが示している。自分に有利になると考える証言ならば、堂々とすればいいと思うが、仮に捜査中を理由にする理屈があったとしても、問われているのは首相の座にあった政治家の政治責任でもある。これを国会で果たす重みをどう考えているととればいいのだろうか。これも、国会軽視、国民軽視に一直線につながってしまう。
しかも、こういう事態が発覚し、しかもこれほどまでに安倍前首相自身が苦しい立場に立たされると、当然にあの奇妙で不透明なままの、黒川弘務検事長の定年延長問題が浮かんできてしまう。政権に近いとされた黒川氏を、無理筋な論法を駆使しても、検事総長に据えたかったのではないか、という、繰り返し指摘されてきた、あの疑惑である。人事を通して司法までも操れるという思惑にとってしまえば、国民だけでなく、司法までもが軽視しようとした、とれてしまう。
だが、一番恐ろしいのは、国民の無力さかもしれない。森友・加計問題・「桜を見る会」と、あれほどメディアも野党も追及しながら、前首相在任中に真相が明らかにできなかった。「丁寧に説明した」と言われて、その言い訳を突き返して、説明責任を果たさせることができなかった。言い方を変えると、現在のわが国では、前記軽視がまかり通ってしまいかねない現実である。
今になって補填の事実が明らかになり、問題になることについて、現政権との関係を含めて、さまざまな憶測もながれているが、見方によっては、国民にとって皮肉な結果を見せつけられているようにも思う。それだけに、今後、われわれがこの問題にどういう視線を向けるかも、ある意味、試されているようにも感じる。
安倍前政権の国民に対する政治姿勢に、「侮り」という言葉を何度となく当てはめてきたが、これはこの「侮り」を許している国民の代表に対する、国民の「圧力」が決定的に不足していることを表している。国民の「圧力」の前に許されないという、彼らの自覚も、両者の関係性ももはやない。落選の脅威もない。
そういった「圧力」も、緊張感もない関係が、この信じられないような「侮り」を生んでいる、という根本に、私たち自身がまず気付く必要があるのではないか。悪い冗談ではすまないのだ。