司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 「『人質司法』という言葉は現状を言い尽くしていない。勾留は、むき出しの暴力だ」

 

 かつて自らも「長期勾留」体験がある、安田好弘弁護士は、ある弁護士会のシンポジウムで、こう語った。彼は主任代理人としてかかわっていたオウム真理教事件公判中の1998年12月、別の事件で差し押さえ執行される財産を隠匿したとして強制執行妨害罪の容疑で逮捕され、約10ヵ月にわたり勾留された。この間、度重なる保釈請求を裁判所ははねつけ、東京地裁が許可を出しても、検察の抗告を受けた東京高裁は3度にわたり、許可を取り消した(「刑事弁護士が味わった『勾留』という暴力」)。

 

 刑罰と変わらない、この国の勾留の現実は、「人質司法」という言葉を当てはめている当の刑事弁護士の想像をも超えているということを、彼の一言は物語っていた。そして、この「人質司法」と言う名の、国家権力による暴力は、司法が「改革」を唱えるなかでも、手つかずのまま、今日まで存在し続けている。

 

 今年、その日本の「人質司法」が、予想外のことから世界的に注目されることになった。日産自動車会長(当時)カルロス・ゴーン氏の逮捕である。同氏は11月19日に有価証券報告書への報酬の過少記載容疑で逮捕され、同月30日に勾留延長が決定し、その期限の12月10日に起訴されたが、同日、別の期間分の過少記載容疑で再逮捕した。そして、勾留期限の同月20日、大方の予想に反して、裁判所は検察の勾留延長請求を認めず、この時点で「ゴーン氏保釈か」とマスコミは取り上げた。

 

 日産とルノーというグローバル企業の会長という立場にある人物の勾留は、世界的な注目を集め、日本の刑事司法での「長期勾留」の異常さを浮き立たせることになった。「異常」という驚きの反応に対して、メディアは「残念ながらこれが日本の常識」と返す専門家の言葉を取り上げ、まさに「人質司法」という、この国の悪習にスポットが当てられたように見えた。

 

 この「保釈へ」ということが取り沙汰された時点で、前記予想外の勾留延長請求却下に対しては、さまざまな観測が取り沙汰された。

 

 「国際世論に配慮して早期釈放すれば、『日本の裁判所は検察と違う』と英雄視されるから」(12月21日、朝日新聞朝刊記事中の検察幹部の発言)

 

 「人質司法」への国際的な批判論調を、日本の裁判所が意識し、ある意味、それに屈して、悪習を改める方に舵を切ったかのような捉え方である。当時、テレビのワイドショーなどでも、これに近い分析をするものがあった。もし、ゴーン氏の身柄が、現実にその後、保釈に進んでいたならば、今でもこうした捉え方が取り上げられ、その観点でこの悪習がさらに注目されていたかもしれない。

 

 しかし、そうはならなかった。「今日にも保釈か」とされていた同月21日、ゴーン氏は特別背任の容疑で再逮捕されたからだ。前記勾留請求の却下は、検察にとって誤算だったと伝えられているが、そこから先、彼らは「人質司法」の定石通りの手を打ってきたのだった。

 

 この一連の動きのなかで、わが国の「人質司法」について、私たちは二つのことを記憶にとどめる必要がある。一つは、このわが国司法の悪習が国際的批判によって、注目され、司法がそれによって動きかけたということ。そして、もう一つは、ゴーン氏が検察の定石通りの手法で、再び「人質」となったとき、マスコミも、あるいは世論も、潮が引くように、この問題に関心を失ったかのように言及しなくなったこと、である。

 

 もちろん、今後の展開は分からない。新たな勾留期限を迎えたとき、再び悪習として取り沙汰されるかもしれない。しかし、そうだとしても、私たちは気がつく必要がある。「人質司法」に対する、私たち社会の認識は極めて甘く、そしてもろい、ということを。およそ安田弁護士が言った「暴力」という認識からもはるかに遠く、われわれの社会は、それを許容しているのだ、ということを。

 

 「人質司法」とは、それを実行しているわが国の司法の問題であると同時に、それを許している私たちの問題である、という認識がまず必要なのである



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