司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 ジャーナリストの安田純平氏が、約3年4ヵ月ぶりにシリアの武装勢力から解放され、帰国することが決まった直後から、ネット上では日本社会の受け止め方を懸念する、日本人の声が広がった。これまでの同様の体験から、またぞろ日本国内で「自己責任」論が巻き起こることを、多くの同国人が認識し、懸念したのだ。それには、ある意味、日本の世論に健全さを覚えるとともに、 もはや日本人が同国人の世論動向を心配する事態には一面、なぜ、日本人の感性は、この問題で分裂的状況なのか、と思わざるを得なかった。

 

 戦場ジャーナリストの役割、国民を救出する国家の役割についての根本的な理解度の問題はある。ただ、それを支えているのは、とても利己的な感情のようにみえる。つまり、自分には彼らが提供しようとする海外の戦地情報など知らなくても構わない。救出に自分たちの税金が使われるのが納得いかない。他国の人民への無関心だけでなく、いま、身に降りかかっていない戦争という状態への無関心。とりわけ、常日頃からそこまで税金の使い道に神経を尖らせているともいえない人までがいう、「納税者」としての発言には、アンフェアで、利己的な視点を感じてしまう。

 

 しかし、それと同時にこだわらざるを得ないのが、この「自己責任」論といわれているものがはらんでいる攻撃性である。

 

 わが国で「自己責任」論は、主に二つの場面で登場する。一つは責任転嫁、もうひとつは糾弾だ。 前者は、自らに責任が被せられそうな局面で、主に相手の自由な選択や実行の結果であることを強調する。国家を含めた政策、活動の提供主体から、享受者への責任転嫁で登場するのがほとんどといっていい。結果を提供責任から切り離す、発想転換の説得力にかかった論法であり、そこに享受者側を納得させる効果も生み出すが、一方で、その実は、提供者の責任逃れ的な、ご都合主義的使い方である場合も少なくない。

 

 一方、後者の糾弾の場合の「自己責任」論は、ほとんど「自業自得」論と置き換えられるものである。責任の転換だけでなく、本人自らが結果を生み出したという点をより強調するとともに、本人の無理解と、選択の無節操を決めつけるものだ。

 

 これが典型的に表れているのが、被害者の「落ち度」論といえるものだ。「加害者は悪いが、被害者も悪かった」。時に詐欺にも、レイプ被害にも被せられるこの論調は、多くの場合、被害者側、あるいはその「予備軍」側に再発防止への注意を促す良心的アドバイスの域を越え(もっともこの時点で結果との関係性を取り違えている場合は少なくないが)、本来、責められるべき加害者よりも、結果として被害者をより積極的に責める形になる。「お前の被害は、お前自身が生み出したのだ」と。それを棚に上げて、被害者づらしているとして、その心得違いを責めているのである。

 

 前者が当事者の提供者と享受者の関係性のなかで問題となる用法になるのに比べて、後者はまさに社会対個人(あるいは少数者)の関係で問題となるという別の深刻さをはらむ。「自己責任」という「自業自得」を責める糾弾の声に、標的になった側は、沈黙を余儀なくされるかもしれない。そして、それは、アンフェアと不正義を、世論自らが社会に呼び込むものになりかねない。

 

 批判対象者との直接的利害関係に、とどまらないだけに、それを支えるものは感情的な世論ともいえる。被害者の状況を理解、想像しない(できない)そうした感情は、対象のケースとは全く関係のない不満やストレス、あるいは余裕のなさのしわ寄せであってもおかしくない。そして、まさしく今回の安田氏のようなケースに向けられるものは、このパターンをあてはめるのが一番しっくりくる。

 

 今回のケースについて、わが国社会によどんでいるように見える「自己責任」の世論が、今後、どういう形で展開するのかは、まだ分からない。だが、早くも、今回のようなケースで繰り出される日本人の「自己責任」論について、「信じられない」「あり得ない」といった諸外国からの反応が報じられている。どうも日本の特徴という見方もできるようだが、そもそも、なぜわが国では、「自己責任」が「自己」の自覚から発せられることよりも、他者に自覚を迫る文脈で登場することの方が多いのだろうか。

 

 それは、ある意味、この社会で自国民への失望という、感情にもつながりかねないが、むしろ、ここは冷静に現在の自国民の、姿を直視し、それを生み出しているものを見つめ直す機会にすべきだろう。



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