字数にして現行憲法の約6割まで短くされている自民党憲法改正草案の「前文」。両者を見比べてみれば、自民草案が消そうとしているものが、戦争への反省や平和に対する、当時の日本社会、あるいは日本人の思いそのものであることは、一見して明らかだ。それは、自民党が説明するような、「翻訳調」でつづられた現行憲法への「違和感」(自民党の草案Q&A )に基づく、表現の簡略化・現代化などでなはなく、明らかに別の思想に立つことを前提とした、その思いの切り捨てである。
どうして彼らが、この思いを切り捨てたのか。このことを考えること自体が、われわれにとっては、彼らに対する非常にいい判断材料になると思う。彼らは、この国家の根本理念、正統性あるいは思想を表明する場となる憲法「前文」において、彼らの目的を達成するためには、どうしてもそれを成し遂げる必要がある。
改めていうまでもないが、すべては「9条改正」といっていい。「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることない」ようにする決意による、戦争への深い反省や不戦の誓い。戦争の被害と加害を痛感した日本が、諸国民との協和のもとにした平和の維持へ決意と、平和的生存権の提唱。そこをまず、消さなければならないのは、「9条改正」において、国防軍を規定し、戦力不所持と交戦権否定の条文を消し去ることを目指すことを考えれば、分かり易い。
前記Q&Aのなかでも自民党は、現行の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という部分について、はっきりと「ユートピア的発想による自衛権の放棄」と位置付けているが、彼らにとって何が不都合なのかは明確だ。
さらに、そのために、自民党草案は、これまでの国家と個人の関係を変える必要があると考えた。尊重される対象を「個人」から「人」に変え、「公共の福祉」に変わり、「公益及び公の秩序」をその縛りとし(13条)、それを表現・結社の自由の縛りにもする(21条2項)。国民に保障する自由と権利にも、この縛りを前提にした義務の自覚を突き付ける(12条)。さらには天皇を「元首」とし(1条)、国旗・国歌の尊重を規定する(3条)。
自民草案前文が、わが国の、「長い歴史と固有の文化」を持ち出し、「天皇
を戴く国家」であるとし、国民が「国と郷土を誇りと気概をもって自ら守」るという形の「愛国心」を掲げる一方、「国民の厳粛な信託」による国政という位置取りから、まさに国家を主語とする、権力行使体制を意識したととれる文面に改めることも、その目的にかなっている。そのためには、「国家」を縛ることを目的とした憲法の正統性そのものを変質させることにも躊躇はない。
自民草案は、「9条改正」=「戦争ができる国」に日本を変える目的に向かって一直線というべき内容であり、逆に言えば、すべてはそこから逆算された構成といえる。その意味で、不戦と平和への思いをばっさりと切り捨てる、その前文は、そのこと自体を分かり易く、グロテスクに、我々に教えるものになっているというべきだ。
ただ、何といっても見落とせないのは、これほど分かり易く、あからさまな「改正」を、今、彼らが堂々と掲げ、それが参院選での争点にするとまで言っている現実だ。憲法改正問題への有権者の反応に対して、あくまで選挙への影響という視点から関心を持ち、政見のなかの強弱には気を使うようにみえる彼らだが、景気回復への期待感という支持に埋め込ませ、駒を進めることはできるという認識が、もはや彼らにはある。この草案を堂々と掲げる彼らの姿勢には、国民の危機感や感性に対する、侮りすら感じとれてしまう。