司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 市民を強制的に裁きの場に連れ出し、事実認定だけでなく、量刑にまで参加させる。裁判に市民の良識が反映されることを目指す制度だから、より重大事件にこそ、意味がある。しかし、素人だけではなく、裁判官とともに裁くことになるし、それもあくまで一審だけである――。こうした裁判員裁判で出された死刑判決が、高裁で無期懲役になる判決が既に3件になり、裁判員制度の存在意義をめぐる、ざわめきが起こっている。

 

 市民を強制までして連れ出して、悩ませて、出させた結論を、専門裁判官がひっくり返すのでは、その良識の反映という趣旨に沿っていないという、制度の意味そのものの喪失をいう批判論である。

 

 この事態を重く見てか、朝日新聞が2月6日付け「社説」で取り上げ、そうした論調に対して、こう説得してみせる。

 

 「だが、問われているのは、公権力が人の命を奪うという究極の刑罰である。別の法廷で、違う目で精査し、ほかの刑の選択肢があると判断するなら、避けるのは当然のことだ」
 「担当する裁判員や裁判官によって結果が異なることもある。裁判員裁判の結果だからと重きを置けば、裁判の公正さへの信頼が揺らぐ」

 

 おっしゃっていることは、「正論」だ。裁判員制度推進論の立場から、前記批判論に対しては、異口同音にこう被せるだろう。だが、問題はそれが今であることではないか。事実認定だけでなく、量刑にまで関与すること、死刑判決にもかかわることになること、そして、「朝日」の説明通り、専門裁判官の判断で最終的には、「市民の良識」による結論もひっくり返る場合があること。このことの意味を、この制度を受け入れさせられることになった社会は、十分に理解していたのか、という「いまさら」感である。

 

 日本の社会に陪審制度をイメージさせながら、それとは異なり、量刑まで参加対象に加えられている裁判員制度にあって、結局は市民裁判官には理解できない量刑相場も公平の観点から踏まえざるを得ないという話は、本来は、量刑関与の是非そのものの論点を浮かび上がらせる。死刑関与も、当然、市民感情としての抵抗感からすれば、前記「重大犯罪こそ参加」という制度のあり方の根本への疑問につながり、一部にいわれていたような逆に軽い犯罪からの参加がふさわしいという論調にもつながったはず。さらに、「朝日」のような「正論」がもっと伝えられていれば、それこそ市民を強制までして引っ張れ出す制度の存在価値そのものを疑問視する見方が、とっくに生まれていたかもしれない。

 

 要は、国民が制度の存在意義やあり方に疑問を投げかけそうな論点は、制度スタート前に果たして前面に掲げられ、国民に前に提示されたのか、という疑問がどうしても拭いされないのである。「良識の反映」という意義や、参加への賛同を促すための、「誰でも裁ける」という、いわば耳触りのいい話が先行し、裁判の厳粛さや困難さは、市民のこの制度に対する「評価」材料としてフェアに提示されただろうか。問題になった裁判員のストレス障害にしても、結局、死刑判決関与を含め、「裁く」ということがどういうことなのか、どういうことがあり得るのかが、社会に伝えられないまま、制度が強制されたツケといわなければならない(「裁判員制度が踏みにじっているもの」)。

 

 隠していたわけではない、という弁明が聞こえてきそうである。しかし、現に制度スタート前までの大マスコミの報道は、直前にこそ死刑関与について言及したものの、それまでほとんどこの問題について、国民に投げかけたものはみられなかった。量刑関与も、重大事件関与も、さらに、参加強制化も、議論の余地のない論点として、大前提のようにスル―した格好だ。国民がこの論点について覚醒していなくても、さらにそれがこの制度導入是非の評価に反映していなかったとしても、それは国民が責められる話ではない、ように思える。

 

 そもそも国民の代表が、「正統に」国会で導入を決めたと推進派が胸を張るこの制度にあって、当の国会議員たちですら、制度の実態を理解していなかった現実も報告されている(「『国会通過』という御旗」)。

 

 「朝日」社説は、性犯罪への重罰化、執行猶予への保護観察増といった裁判員制度導入による変化を挙げながら、「とはいえ、市民感覚を法廷に持ち込みさえすればいいという制度ではない。主眼は裁判員と裁判官が対等に話し合い、犯した罪に過不足ない刑を選び取っていくところにある」と、「正論」を続ける。「対等に話し合う」という前提も、「過不足ない刑を選び取っていく」というのも、現実から見てしまえば、やはり制度ありきから、ひねり出したイメージ化にとれる。それが、何のためなのかは、もはやはっきりしている。つまり、量刑まで関与させる制度への疑問、無理という方向を覚醒させない、そういう論点に社会の目が極力いかないためのものにほかならない。大前提としたスル―は続いているのである。

 

 「司法は誰かにゆだねるものではなく、国民全員が当事者だ。その認識をさらに深めたい」

 

 「朝日」は、またぞろ「お任せ司法」批判ともいえる、お馴染みの「改革」理念につながる切り口で、この社説をきれいに締めくくっている。しかし、その「当事者」と持ち上げる肝心の国民に、制度の本質はフェアに伝えられ、その選択に「当事者」の意思や評価は、正当に反映される形がとられたのか、そもそもその気は、制度推進者にあったのか。その認識をまず深めなければいけないのは、彼らであるように思えてならない。



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