新型コロナウイルスの「感染対策」での飲食店へのアルコール提供自粛要請を、事実上の「禁酒令」と見て、それが社会をどう変えるのかを識者に語らせた企画を、5月29日付け朝日新聞朝刊オピニオン面が掲載している(「耕論『令和の禁酒令』の先」) 。
この中で岡本勝・広島大学名誉教授は、1920年から33年まで続いたアメリカの禁酒法が、結果的に酒を飲めない労働者と、現実は飲むことが出来た中産階級以上の間で、国民を分断し、不平等を意識させたように、現在の日本でも飲める町、飲めない町、営業をやめる店、やめない店といった明らかな不平等を生じさせたことに着目。彼はこれを「副作用」と表現している。
前者の禁酒法は、労働者の禁酒習慣を改めさせる以外に、東欧・南欧からの移民労働者が酒場を介してつながり、そこを舞台にした政治との癒着を防ぐという狙いがあり、いうまでもなく、今回のコロナ感染防止対策とは、明らかに目的を異にしている。ただ、「酒」を社会から取り上げることから生まれる「不平等」で共通するということになる。岡本氏は、もし今回の場合も、コロナに抑え込みに明確な効果が出ないと、結果的に「不平等感という『副作用』」だけが注目されてしまう」と推測している。
この一文を読んで、奇妙な気持ちにざせられた。酒の提供というテーマに限らず、コロナ禍の中のわが国で進められていることは、実は深刻な「副作用」の懸念をはらんでいるのではないか、と改めて気付かされるからだ。そして岡本氏の結論とはいささか違うニュアンスになるが、もっとその「副作用」にわれわれはごだわるべきではないか、と思えるのである。
例えば、コロナ対策で繰り出された「要請」による「強制」あるいは「統制」効果の前例。事実上、協力するのは当然という意識を醸成させることで、相互監視と同調圧力によって、「強制」の目的を貫徹させる、国民総動員の前例といわなければならない。そして、仮にこれが不十分ということになれば、国民の間により強い国家の介入を期待する意識が醸成させ、「強制」への抵抗のハードルが下がる方向を生むかもしれない。
当初いわれた自粛要請と経済的補償を当然にセットにするという考え方は、どんどん霞み、なし崩し的に国民は犠牲的協力を余儀なくされている。「犠牲」という感覚は、コロナへの恐怖と選択肢がないという状況によって、「自己防衛」と「協力」という感覚に置き換えられていく。国民に「犠牲」を飲み込ませる前例、統制実験の意味をもってしまいかねない。
しかも、この経緯に説明や納得というものが決定的に省かれている。緊急事態宣言解除の基準、「三密回避」「マスク着用」あるいは前記営業を含む「自粛」をめぐる、国民の中にある数々の矛盾に対する疑問に、科学的根拠を示して、明確に答える、あるいは答えようとする政府の姿勢が、国民には見えない。
それに対して、強い不満はあり、それは高まっている。しかし、もしこれを世論が(あるいは政権与党の期待通り)どこかで鎮静化してしまえば、あるいはこれも彼らの説明責任回避の「成功体験」の一つに書き加えられてしまうかもしれない。
現在のところ、オリンピックが強行されようとしているが、既にオリンピックそのものが大きく傷付いている。利権とカネまみれが当たり前になっている姿もさることながら、このコロナ禍の中での政府・関係者の姿勢によって明らかになった、多数国民の開催反対を無視して進められようとしている非民主的、あるいは反国民性の本性である。主導する側が、このことをなんとも思わない、検討対象にすらしない姿勢をわれわれは目の当たりにしてしまった。
しかも、その強行の姿勢もまた、説明や納得させようとする努力すら見せない、独裁的といっていいな代物であり、その意図として透けるものは、オリンピック本来の姿とはかけ離れた利権と政治的思惑である。もはやアスリートたちへの同情と開催への素朴な国民の期待感に隠れて、本当は公に説明できないことを目的に、突きつき進められようとしているのである。これはオリンピックを媒介にした、大きな不信の種であることは間違いない。
問題はこうした社会に生み出される「副作用」を、権力者たちはそれほど恐れているようにみえないことである。彼らは、これらの「副作用」を最終的に国民は問題視しない、看過してくれると侮っているようにしかとれないのだ。
よく政権の意向を代弁するコメンテーターたちが、「感染者が減れば」とか「オリンピックが開催されてしまえば」という仮定の表現を使う。「そうなれば」、このプロセスで私たちが見せつけられた、いくつものこの社会にとっての危うい前例も、まるでなかったように国民は通り過ぎてくれるだろう、チャラにしてくれるはず、と言っているように聞こえてしまう。
しかし、私たちがこの「副作用」の危険性に、一つ一つきっちりこだわらなければ、日本は、一歩一歩その前例が当たり前に通用する国になっていくのである。