受刑者の選挙権を認めない公職選挙法の規定について、大阪高裁が9月27日、「一律に制限するやむをえない理由があるとはいえない」とし、初めての違憲判断を示した。受刑者の順法精神の欠如、公正な選挙権行使不能といった国側の主張を退けたもので、背景には、成年後見制度での後見人がついた知的障害者の選挙権を与えない公選法の見直しもあり、同法をめぐる差別解消への司法の流れがあるとの指摘もある。
しかし、今回の判決は、当局にとっては相当に想定外だったようだ。端的にいえば、こと「受刑者」に関しては、そうはならない、いわば社会的に通用する差別であるという自信があったととれる。
「選挙権を与える、与えないについてはどこかで線引きが必要だ。刑務所にいる受刑者、罪を犯して『実刑』という重い刑を受けているのだから、選挙権がないのもやむを得ない。国民も受け入れていると思う」
この判決を報じた28日付け朝日新聞朝刊の記事に登場する、この法務省幹部のコメントが、端的に彼らの心中を示している。ただ、これらは、冒頭の順法精神と選挙権行使の適格性の主張と併せて、彼らの意識の問題というよりも、やはり私たち社会の意識の問題ととらえなければならないだろう。つまりは、われわれ国民は、現実問題として、何を受け入れ、何を受け入れていないのかという根本的な問題である。
受刑者に選挙権を認めるということは、彼らを私たちと同じ「社会の一員」として受け入れ、彼らにもまた、私たちの社会の方向への決定権を与えることにほかならない。欧州での受刑者への選挙権付与の流れも、結局、この発想のもとに、彼らをあくまで社会の一員に加え、それをもってしてルールにも従わせる、という発想が根底にあるという。
対して、私たちの社会では、まさしく前記法務省幹部が忖度するように、罪を犯したという立場をもってして、そこに選挙権の制約が生まれたとしても、それを真正面から問題視する意識が一般的かといえば、それもまた、疑問である。権利としては自己責任だし、少なくとも彼らの一票を排除することに、どのくらいの抵抗感が、社会にあるのかといわれれば、大方あるとはいいにくい。
つまり、この問題は、私たち社会の受刑者の位置付け、さらに選挙権というものをどうとらえるかを含めた、私たちの根本的なこれからの発想が試され、問われているものといえる。前記朝日の記事には、成年被後見人のときのような「同情」が、今回の受刑者に関しては得られないとの見通しから、法改正に簡単に向かわない、という裁判官のコメントや、逆に受刑者の選挙権を認めない決議案が、英国国会で、犯罪の厳罰化を求める世論を背景に、圧倒的多数で可決された事実も伝えている。
司法が違憲と断じても、国民が背を向けることで、それが解消されないという状況が、この問題では起こり得るということである。もちろん、むしろそのことへの「期待」もはらみつつ、行政はそうした世論をにらんで、なかなか動かないという立場もとれることになる。
それらを踏まえたうえで、私たちはこの問題を見つめ直す必要がある。