安倍晋三首相が1月24日の施政方針演説のなかで使った「責任野党」という言葉から読みとれる、ご都合主義には、さすがに大マスコミもすかさず反応した。毎日新聞は1月29日の社説で、「補完野党に陥るな」という見出しのもと、「与党への安易な擦り寄りは補完勢力への道だ。対立軸を提示する努力を野党各党に求めたい」と指摘。同月31日の朝日新聞社説も、「自民党が衆参両院で圧倒的勢力を占めるいま、そこに安易にすり寄っていくのが野党に求められる姿勢だろうか」とし、政策で勝負せよ、と言っている。
「責任野党」とは「柔軟かつ真摯に」政策協議をやるという首相の宣言は、「責任」という言葉を彼ら側の価値観で被せた、色分けでしかなく、集団的自衛権問題などを念頭に、要は彼らに協力する勢力とは、話し合うといっているのと同義であることは誰の目にも明らかだ。彼らからすれば、「責任」の反対は当然「無責任」ということになるが、それが正当な「抵抗」に対しても、被せられるご都合主義を、われわれは知っている。
「決められる政治」を求めた彼らが、早速明らかにした本性を、先の特定秘密保護法案審議で見せつけられたわれわれは、安倍晋三首相とその政権のご都合主義と、さらにはそれにすり寄る流れが作られる、まさに「翼賛」というにふさわしい状況に、もっと神経を尖らせなければならない。
実は、この「責任野党」という言葉を聞いて、現在の政治状況とは別のあることを連想した。それは、1990年代から2000年初頭の、司法改革論議が華やかだった、いわゆる「改革の季節」のころの日弁連についてである。当時、法曹三者一体、あるいは官民一体での推進が声高にいわれた司法改革。「オールジャパン」といわれた、その体制のなかで、日弁連はそれまでの反対する組織から、提案・協力する組織へと姿を変えた。主体的に「改革」に関与し、それを「市民のため」のものに変えていこうとする姿勢は、「せめぎ合いの論理」などといわれ、前向きなアプローチとして喧伝されたが、それは徹底的に抵抗するこれまでの日弁連の旗を降ろすことでもあった。
当時の「改革」推進派の経済界の人間が、そのころの日弁連の姿を称して、「大人になった」と表現したのを覚えている。当時の社会党に使われた「何でも反対」という表現がそのまま被せられた、日弁連の過去を脱皮し、話し合いのなかで、彼らのいう「現実論」で妥協する団体へ。そのことへの称賛だった。まさに「抵抗団体」から「責任団体」になったという位置付けである。
もちろん、当時から、弁護士のなかにも、日弁連がこれまで大衆のなかのどういう期待感を背負い、何の受け皿になってきたのかを問い掛ける声がなかったわけではない。人権擁護を標榜する、それこそ最後の砦として、抵抗する存在、あるいは反権力的姿勢こそが日弁連ではなかったのかと。ところが、「改革の季節」のなかで、日弁連は国策を共に推進する、「改革」の協力者となる道を選んだ。たとえ当初掲げていた陪審制導入や法曹一元制が完全に消え、裁判員制度が思想・信条の自由を犠牲にして、公平・平等の法曹養成を崩す法科大学院制度が導入され、一方で無謀な弁護士激増政策が経済的基盤を破壊し、その結果として、弁護士の修養期間は奪われ、それによって大衆にとってのリスクが増したとしても。日弁連は、今日に至るまで、この「改革」の協力者であったことを反省もしなければ、改めることもしていない。
さすがに今、会内からも、まるで夢から覚めるかのように、なぜ、日弁連はこの「改革」路線にいつまでも付き合っているのか、という声は聞かれるが、少なくともあの「改革の季節」には、ある意味、これまでの日弁連ならば当然ともいえる会内からの懸念論・慎重論を、「反改革」として取り合わない、あるいは「改革」という名のもとに飛び越える議論が広がっていった。「反改革」派からは、「翼賛」という言葉が聞かれた。「翼賛」とは、いつも同じ顔をしているようだ。そして、今、まさにそのツケがまわってきた「改革」の現状を私たちは見ている。
日弁連・弁護士会という組織が、時に「抵抗勢力」というレッテルに怯え、情勢論で動けば動くほど、それまでの日弁連の姿勢に眉をしかめてきた方々には「現実論」として称賛されても、その都度、在野の専門家集団として筋を通す姿はかすんできた。「改革」路線のご都合主義に付き合わず、もう一度、「改革の季節」からの姿勢を問い直す「責任」こそが、今、日弁連に問われていいように思える。