司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>




 いまだ根拠不明のままで、議論が収まらない、日本学術会議の新会員任命見送り問題で、その根本で、われわれに問いかけられたのは、独立性の価値ということである。そして、この問題で改めてはっきりしてしまったのは、端的にいって、この国の政治権力は、その価値を軽視している、ということだ。

 同会議は、科学に関する重要事項に関する審議とその実現、研究の連絡、能率向上を「独立」して行い、科学の振興、技術の発達や研究成果の活用に関する方策などを、政府に勧告することができる組織として、法律に規定されている(日本学術会議法3条、5条)。

 こうした専門家団体の独立性の価値は、政府に対して、いかに制約なくものが申せるかにかかっているといわなければならない。いうまでもなく、結果的に時の政権の顔色をうかがう政策提言、勧告になる恐れがあれば、本来存在そのものの意味もなく、専門家の価値の自己否定になるからにほかならない。

 そして、そういう結果になることを恐れて、人材を排除するというのであれば、その独立性の価値は軽視されている、といわざるを得なくなる。もちろん、現政権がそれを正面から認めるわけはない。ただ、今、疑われているのは、まさにそのことなのであり、そして、政権側が何を疑われているかを知らないわけはない。

 言い換えれば、このままでは多様な考えの専門家が議論し、あるいは政権にとって耳に痛い提言をすることの「価値」よりも、それが科学的に彼らの出した本当の答えではなくても、政権の都合に寄り添い、あるいはお墨付きを与えてくれる存在の「価値」を重く見た。それが疑われているのである。

 菅義偉首相が任命しなかった弁明の中で、「総合的、俯瞰的」観点からの結果という話が出ている。もし、これが独立性の価値を認めたうえでのことであるならば、任命されなかった彼らが、そうした専門家集団の使命としての独立性を既に棄損しているとか、既に専門家として「俯瞰的」な視点を欠いているという説明がなされなければならない。しかし、もちろんそういうものがあるわけでもない。

 これまでの学術会議の「改革」論議を振り返ると、「総合的、俯瞰的」な制度への変更や、透明化といった課題は浮き彫りになってきた経緯があるが、当然に独立性の価値は担保されなければいけないものという共通認識が、根底にあったようにみえた。少なくとも、今回の政権による正面突破のような、あからさまな軽視には、距離があるような印象すらあった。

 しかし、「独立性」というテーマで考えれば、それは油断であったかもしれない。そう思わせる記事を、11月13日付け毎日新聞朝刊が報じている。大見出しは「最高裁でも人事圧力」。独立性の高い行政機関にゆだねられた慣例を、官邸主導に転換させる手法は、既に安倍政権に始まっており、それは最高裁後任人事に及んでいた、と。

 最高裁が推薦した1人の候補をそのまま内閣が認める慣例。しかし、2012年12月の第2次安倍政権発足以来、後任人事について2人提出するよう、官邸側は最高裁に求めた。そして、その後、最高裁側が2人のうち、片方に丸印をつけ、優先順位を伝えたのに、噛みついたのが、ほかならない当時官房長官であった、菅首相だったというのである。記事は、その時の彼の、こんな言葉を取り上げている。

 「これ(丸印の方)を選べと言っているのか。いままでの内閣がなぜこんなことを許してきたのか分からない」

 彼は、司法権の独立についての「価値」をみておらず、これが人事を通じた圧力になることに気が回っているとは思えない。「いままでの内閣がなぜ」という答えも、もちろんそこにあり、それが配意の程度の決定的違いであることに、気付いていないのか、気付いていてあえてこう言っているのか、いずれにしても軽視という言葉を当てはめたくなる。

 ただ、本当の不安は別のところにもある。それは国民の目線である。独立性の「価値」という視点は、それを否定する側の、組織側の保身とか利害とかを絡めた、社会の不利益につながる不適切さのイメージに揺さぶられる。そして、独立性の「価値」よりも、はるかにイメージしやすい「価値」として、社会につたわりがちである。有り体にいえば、時の政権距離という独立性が守られる「価値」よりも、自分たちの税金や本来享受できる権利が、あたかも「村」社会のような集団の利益で棄損されているという方に説得力を見出しがちなのである。

 司法改革の議論にしても、司法制度の改正を法曹三者の意見一致を努力義務としていた参院法務委員会付帯決議を撤回する形で、三者以外の意見を大きく議論に取り入れるという形で進められた経緯があった。三者決定の時間の遅さ、とりわけ弁護士会が足を引っ張るということも当時、この前提のデメリットとしていわれたが、実はそれよりも強くいわれたのが、三者に三者利益で結論が導き出されるということだった。そして、当然にそれは国民にとっての不利益というイメージにつながった。

 しかし、結果はどうだったかといえば、皮肉にも三者中心の議論であれば、三者ならば分かっていたはずの、ここまでの失敗を、あるいは回避できたかもしれない。結局、当初弁護士会のなかで大増員の無謀を分かっていた人はいたし、最高裁も国民の司法参加の無理を言っていた。いずれも反国民利益のイメージが上回り、それに抗せないという層から、推進派がいうオールジャパンの「改革」に取りこまれていった。そして、実際に、反国民利益のイメージにのっとって進められた「改革」が、本当に国民の利益につながったのか、という問いかけをしなければならなくなっている。

 これは「独立」そのものが直接のテーマではないとしても、推進者がこの国で何が国民に通りがいいか、それがあるいは別の利益を覆い隠せるのかを、知っていたことをうかがわせるエピソードとしては、「独立性」の危機とも被せて見たくなる。

 それを分かっていればこそ、菅政権も、苦しい弁明をそのままに、組織の見直しに話を転嫁しているのである。そこに、失われる「価値」を多くの人に気付かせないように。

 学術会議の独立性が脅かされる、今回の事態に対して、弁護士の中から「次は弁護士自治か」といった声が、異口同音に聞かれた。こういう切り口に、弁護士自治の「価値」がさらされたらば、ひとたまりもないのではないか、という見方も聞こえてくる。

 失ってしまう前に、まず、私たちこそが、これらの「価値」を改めて直視する必要があるように思える。



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