司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 かつて在籍していた業界新聞で、長く法曹三者トップ就任の際に、単独インタビューを行ってきた。そのなかで法務大臣だけは、別の覚悟が必要だった。それは、端的に言って、多くの場合に、法曹でもなければ、時に、司法の現状を把握していない人間に、司法の問題を問うということへのものだった。もちろん、彼は法務行政のトップという責任ある立場にある。ただ、大臣の無理解や時に勉強不足をそのまま取り上げたとすると、インタビューが成り立たず、趣旨も変わってしまう可能性があったからだ。

 

 もっともそうした別の趣旨になるようであれば、そもそも法務省は絶対にこちらの企画に応じないだろう。インタビューをする大臣室でも、がっちり官僚が同席し、大臣をガードし、事前にこちらが差し出した質問に用意された回答原稿を、大臣が間違いなく読むかをチェックしている。こちらも、それでは面白くないと、度々その場の流れで変化球を投げるのだが、それはほとんどの場合、あまり効果がない。原稿をひたすら読み返すか、言い淀むか、官僚に助け舟を求めるか、といったところである。

 

 結果、法務大臣インタビューは、現在の法務省の考えを聞く、法務省インダビューと割り切る形になる。どういう人間がトップになり、どういう考えで、何が変わってくるのか、という点は、本来、重要なポイントのはずだが、事実上、そこに切り込めないのである。言ってみれば、それはいつしか「資質」と切り離した形で行われる「慣行」となってしまっていたといっていい。割り切りによって、インタビュー成り立たせること、また、読者もそこは分かっているはず、という認識によっていたが、「慣行」を支えていたということでは、私も共犯である。

 

 だが、目を離してみれば、私のインタビューに限らず、法務大臣というポジションそのものが、いつしかそうした慣行の中にある存在ともいえなくないのである。

 

 法務大臣の人事について、ある種の「軽さ」がずっと言われている。何が重要閣僚かという切り口は、本来は問題にされていいとも思うが、事実上、そうした切り口によって、法務大臣の人選が行われ、派閥調整などの思惑が絡んできた、という見方だ。その意味で、法務大臣というポジションは使い勝手がいいという人もいる。ただ、それは「誰がやってもそれほど変わりないから」という認識ととれてしまう。

 

 たまたま法律専門家が就任したり、また、前記したインタビュー原稿を自ら執筆すれば、省内でも特別な目線が送られるような、不思議なポジションは、そもそもそうした「生まれ」にかかわっている。そして、むしろそれの方が都合がいい法務官僚によって、それは支えられてきた、という見方もできてしまう。

 

 法務大臣の失言などで、その「資質」が問われる度に、その「軽さ」にかかわる「生まれ」をめぐる人事慣行に触れるメディアもある。今回の「共謀罪」をめぐる金田勝年法務大臣の言動をめぐっても、この点に言及するものもあった。だが、それはこれまでも一過性の扱いであり、根本的な問題として認識されないまま、「慣行」として存在してきた。

 

 「選ぶ側」の認識の問題として、これは考えられならないが、それ以前に、まず、私たちの認識として深く考える必要があるように思えてならない。



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