司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>



 

 裁判員に選ばれる年齢が、20歳から18歳に引き上げられることを、最近、メディアがしきりと取り上げ始めた。一部議論不足や周知の徹底化が必要とする論調はあるものの、18歳からの選挙権付与、来年4月の民法の成年年齢の引き下げという流れのなかで、裁判員としての18歳の参加そのものは、半ば当然視するような前提もみられる。

 ただ、果たしてメディアが今、本当に向き合わなければならないのは、このことなのだろうか、という疑問が拭えない。むしろ、年齢引き下げというテーマに引き付けて、開始から12年以上が経過して明確になった制度の現実から、国民の目を遠ざけようとしているのではないか、という印象を強く持ってしまうのである。

 「18歳裁判員 幅広い参加に向けて」というタイトルで、朝日新聞は12月11日の社説で、この問題を取り上げた。18・19歳を除外する理由は見当たらない、米・英・カナダの陪審員も18歳から使命を果たしているなどとして、「対象拡大」は前向きに受けとめるべき、としたうえで、こう続けている。

 「三権の一つである司法権の行使に携わることは、その後、主体的・自律的に社会に関わっていく契機になる。早い段階から経験する道が開ける意義は大きい」

 ある種、既視感のようなものを覚えるというべきだろうか。この制度をめぐって、はじめから絡みつく教育論。制度導入に際し、国民が主体的に裁判に参加することによる、民主主義的教育効果がいわれたのと同様、今度は、若年者に対する制度の教育効果が、まるで当たり前のようにいわれている。

 しかし、そもそも刑事裁判の本質・目的から、目を逸らした、むしろ誤ったメッセージを国民に伝えるものであるといっていい。国民の司法に対する意識を変えたり、まして早い段階からの経験が、「主体的・自律的に社会に関わっていく契機」というメリットを、まずかざすこと自体が、刑事裁判への誤解を生みかねない。制度を推進しようとする側は、まだ、そういうことを言っているのである。

 刑事裁判の主役は、あくまで国家権力に対峙して法廷に連れ出されている「裁かれる側」であって、「裁く側」ではない。制度は、法律に従い、正当に裁かれるその目的から、常に逆算されなければならない。この制度への国民の参加をめぐって取り沙汰されてきた「良い経験」についても同様である。刑事裁判は、国民に「よい経験」をさせるためにあるのではないが、不思議とこの制度では、こうした「国民のため」とれるロジックが使われる。

 その理由は、透けている。国民への参加の動機付けである。国民に参加してもらいたい、そのために分かりやすい国民の「当事者意識」を目覚めさせるようなロジックが欲しいということである。それに傾斜するのは、この制度がはじめから国民に背を向けられていることを、推進者は百も承知だからである。

 民主主義的にこの国の司法を支える意義と、国民としての「良い経験」の機会として、どうしても制度に賛同し、参加してもらいたい――。そのことが先行するあまり、「裁く側」に立つことの現実的な厳しさとその覚悟の必要性を後方に押しやり、「誰でもやれる」ような印象を撒き散らして制度導入させた結果、案の定、何が欠落することになったのか。死刑関与などをめぐり、既に制度が明らかにした過ちを直視せず、いままた同じことを繰り返えそうとしているとしかみえないのである。

 18歳で務まるのか、というテーマを、あたかも問答無用のようにスル―して、仮に参加するとすれば、どういう覚悟が必要なのかということへの言及や問いかけがない。

 少なくとも、「朝日」のスタンスは、全く導入当時の「改革」論調と、その点で変わらない。さらに諸外国での前例を引き合いに出す手法も、むしろ制度の本質や現実に国民の深い思考を導かないために、繰り出されているようにしかみえない。「諸外国でやっているからわが国でも」で納得してくれる、あるいは制度導入に加点してくれる国民がいてくれればいい、という話である。もちろん、制度にやぶへびになる、諸外国の実態に言及するわけでもない。

 さらに、「朝日」の社説は、さらに不思議なことを述べている。

 「今回の見直しは、裁判の現状をふり返る好機でもある。裁判員の候補者が任務を辞退する割合は上昇傾向にあり、20年は66%にのぼった。無作為に選ばれた市民のさまざまな視点や感覚を裁判に反映させようという目的を損ないかねない事態で、改善が大きな課題だ」

 なぜ、既に12年以上経過した制度が、国民から依然敬遠されているのか。制度の現状を分かっていながら、その制度がはらむ根本原因にあくまで「朝日」は目を向けず、国民に目を向けるようにも訴えない。制度推進者の描いた効果への思いを繰り返すばかりで、国民がこの制度の必要性をどう考えているのかに目を向けないのも、制度導入時と同じである。

 そもそも国民の主体性とか、民主主義的制度の意義を強調する側が、国民が主体的にこの制度を選択すべきと考えているかどうかについて、相変わらず注目も尊重もしない矛盾をどう考えるべきだろうか。しかも、この国が12年以上経験した結果、いわば制度実績に基づく結果としてみる視点もない。

 まさに、今回の裁判員の18歳への引き下げは、裁判員制度の「現状をふり返る好機」であるはずだが、推進派大マスコミは、相変わらず、「改革」路線の先にしか、この国の司法の未来を見ようとしない。



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