司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>




 

 本来、検察が守るべきものとは、一体何なのか――。「袴田事件」再審公判での有罪立証方針の報に対し、ネット上では驚きの声とともに、「検察のメンツ」という文字が躍っている。社会の違和感という表現が相応しくないと思えるほどの、もはや不正義と見る社会の強い目線を背負ってまで、彼らは進もうとしている。

 「捏造」ということが、その大きな動機付けとされている。再審開始決定で東京高裁が指摘した「証拠捏造」が、彼らを有罪立証に突き進ませた、別の言い方をすれば、彼らを引けなくさせた「メンツ」につながるものという見方だ。メディアでも、「証拠捏造という裁判所の安易な判断を争わずに受け入れられない」とする検察幹部の声が紹介されている(7月11日、朝日新聞朝刊)。

 いうまでもなく、もとより検察が判断のもとにすべきは、「メンツ」云々であってはならない。しかし、あえて言えば、大局的に見て、彼らはこれで「メンツ」を守れるのだろうか、というより、彼らの立場からして、本当に守ろうとしているといえるのだろうか。

 事件発生から既に57年、袴田巌氏に対する最初の地裁死刑判決が出てから55年、最高裁での死刑確定から43年が経過している。その間、袴田氏は一貫して無実を主張し、長い二次にわたる再審請求審を経て、開始決定に至ったものである。つまり、いったん死刑が確定されたといっても、これほど長く争われ、かつ、結果的に有罪立証しきれなかった、という現実の重みとこの案件の異常性を検察は、直視しているといえるだろうか。

 当欄では、この事件の再審開始決定に際し、この間の「疑わしきは被告人の利益に」の刑事裁判の鉄則が再審にも適用されるべき、とした、いわゆる最高裁「白鳥決定」(1975年)や、1980年代に立て続けに出された死刑再審無罪4事件の再審無罪判決もありながら、前記鉄則が活かされているとは到底思えない、同事件の経緯と、冤罪が作られ、修正もできない、この国の現実を批判的に取り上げた(「『袴田事件』再審決定と『修正できない』司法」)。

  まさに「検察のメンツ」を守るためと社会が括る、「修正できない司法」を私たちは見せつけられている思いがする。

 「不可能と分かっている立証を試みる姿勢は、冤罪被害者に対する非道な行為だ」「時間稼ぎだ」と批判する弁護団の声も伝えられている。「時間稼ぎ」という言葉が、袴田氏に残された時間と、彼の生を浮立たせている。それは同時に再審開始決定への特別抗告を断念しながら、再審公判で有罪立証することに、「制度上許される」とか、再審公判に「拘束されない」「蒸し返しには当たらない」と強弁する検察幹部の姿勢の、この裁判が続く意味を俯瞰出来ない現実をグロテスクに浮き立たせているようにとれる(前出朝日新聞)。

 「仮に神の視点からみた場合に袴田さんが有罪であるとしても、これまでの経緯に照らせば直ちに再審無罪を言い渡すべき事案であり、この期に及んで有罪立証をしようとすること自体正義に反する」(半熟@38ml0)

 あるツイッターが、この状況を非常に的確に述べていた。驚くべきことに、前出報道の中には、この先、例え検察が有罪立証を試みても、再審無罪の可能性が高いことを「分かっている」とする法務・検察関係者の声まで登場する。この裁判に関わる検察関係者全員の気持ちかどうかは分からないにせよ、これもまた検察の本音とすれば、まさに正義とは別の価値観がこの方針を支配していることを疑いたくなる。

 この状況を俯瞰して、反省材料にする姿勢を示せず、「証拠捏造」への評価というものに目を奪われた、これ以上の有罪立証の継続で、検察が守れる「メンツ」などというものは、そもそも存在しないといわなければならない。



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