ここのところ来る参院選への女性候補予定者(当時)をめぐる公認問題が、大きな話題となった。そこで当然のごとく、焦点となり、飛び交った言葉が「説明責任」である。しかし、今回の事態は、この女性の公認問題にとどまらず、一体、我々が今、耳にしている「説明責任」とは何なのか、ということを奇しくも改めてクローズアップさせたように思えてならないのである。
近年、この言葉は、一昔前よりも耳にするようになっている印象がある。とりわけ、政治権力者に向けられるそれは、その言動への国民の疑問に対して、すかさず突き付けられる国民の武器のごとき、存在になっている。そして、その裏返しとして、度々それに対する権力者側の対応もまた、糾弾の対象となっている。
政治権力者がこの言葉の前に突き付けられるものは、一応類形化できる。事実の説明。あるいは言動に関わる理由に関する釈明。今回の女性候補予定者で言えば、不倫疑惑やおカネに絡む週刊誌報道から世間伝わっていることの、何が真実で誤りかの詳細な説明であった。また時に、資料開示も求められる。政治資金に絡めば、収支報告書をはじめ、領収書や契約書など可能な限り資料を開始し、透明性を確保する必要が求められる。さらには、第三者機関の検証に前向きに取り組んでいるかを問われたりもする。
一般的に考えて、「説明責任」が果たされているかどうかの評価は、前記した事柄の内容の質と、それを導き出すことにつながるための政治権力者側の姿勢で決せられているようにはみえる。情報開示によって内容が分かり易く提示されているか。一方的な説明ではなく、記者会見などを通じて国民からの疑問、懸念に対して真摯に耳を傾け、対話を通して理解を深めることに積極的であるか――等々。
ただ、問題はここからである。「説明責任」と国民側の「納得」の問題である。もちろん、前記したような「条件」をクリアした「説明責任」が繰り出されることで、国民側に納得や支持が生まれることがないわけではない。しかし、多くの場合、そのハードルは高く、「説明責任」を果たしたという評価や、まして多くの国民の「納得」まで導かれないことが、現実的に予想されてしまうケースは圧倒的に多い。
今回の女性候補予定者についていえば、注目の記者会見で自らに課せられている「説明責任」の対象に応える姿勢そのものの問題自体(そもそもその事柄について説明責任の対象化になっていること自体、認めていないような姿勢にとれた)が指摘され、アウトという評価になっているが、こと社会の「納得」との関係で見ればどうだろうか。
社会に伝播されている事柄を全部事実と認めて謝罪していたならば、国民は「納得」したか。資質論においては、そうしたことを行った人間を謝罪によって、国民の代表として送り出す気持ちに多くの国民はなるか。つまり、否定すれば、どこまでも「説明責任」の姿勢が問われ、肯定しても、資質論において許されることはなく、社会が「納得」することはない。
こうした状況は、彼女に限らず、追及の場に置かれた政治権力者の状況には、少なからず存在するように見える。そして、問題は「説明責任」を受け止め、仮にそれに関してできる限りのことをしても、国民の「納得」を完全に手にできないと分かった時、何のためにこれをやるのかという疑問が、当然のように彼らの中に生まれることである。
有り体にいえば、それはここですべてを開示して、自らの社会的イメージを決定的に固定化してしまうよりも、時の経過によって、社会が「納得」していない状況そのものが緩和ないし、風化してくれるのではないか、という考えへの傾斜である。当然、その結果、生まれるのは、「納得」をあらかじめ目的として捉えない「説明責任」の形骸化といえる状況である。
記者会見開催をまるで禊のごとく、問われている側が「説明責任を果たした」と宣言し、その先の社会の「納得」を容赦なく切り捨て、前に進もうとする姿である。今回の女性候補予定者にしても、彼女が一記者会見で仮にすべてを認めても「納得」への大きな成果が得られない現実を、彼女自身理解していなかったと見ることの方が難しいと考えれば、まさに彼女の中にあったのは、社会の「納得」ではなく、前に進めることだったのではないか。少なくとも社会が、アウトとしたことには、それが見透かされたこともあったようにとれてしまう。
「説明責任」の言葉の前では、常に追及されている側の対応・姿勢からその評価が問われる。それは当然のことではありながら、実はそれでは足りない。もし、追及されている当事者と社会の健全な信頼関係構築、信頼関係が構築され得る当事者との関係とその選択が、究極の目的であるならば、その当事者が決定的に逃げ切れない、ごまかしきれないと逆に「納得」させるための、私たちに求められる厳しい自覚ではないだろうか。
彼らは逃れられない、つまりは逃げられる成功体験を与えない、彼らとの間の(落選なども含めた)緊張関係を維持するための、私たちの側の自覚である。対話も合意も、多くのことに耳を貸すことももちろん必要だが、緊張感を挟んだ関係を前提としなければ、「説明責任」ということも言葉だけで、あっという間に形骸化してしまうのである。