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 安倍晋三元首相の暗殺による、突然の死を、この社会はどう受けとめるのか――。それに関する「嫌な予想」が、彼の死後1週間が経過した今のところ、概ね的中している。非業の死を契機に、彼の過去が美化され、まだ追求しきれていない、彼の政治姿勢や手法が生んだ問題が後方に押しやられるムードが広がりつつあるようにとれることである。

 歴代最長政権の首相としての存在感という要素を差し引いても、大手メディアの、彼の死を悼む論調は、国民が前記ムードに傾くことになんら躊躇しているようにはみてとれない。彼の非業の死によって、彼の政治家として功罪のうち、功だけを、まるで常識人のような顔をして、連日、取り上げているようにさえみえる。

 もっともそれは彼らに言わせれば、逆にそういう国民の感情に寄り添っているというのかもしれない。確かに今、大手メディア側が、彼の非業の死を前にしても、その死を悼む話とは切り離し、いまだ追求しきれていない元首相の「罪」に鋭く言及し、「この死によっていささかもそれは消えない」という論調を掲げたとして、果たしてこの社会は今、それを冷静に受け止めるのか、という気にもなる。大メディアはスポンサーの反応を含めて、それに対する社会のリアクションを当然に恐れたかもしれない。

 生きている人間と比較して死者がよりポジティブに評価される傾向を、「死のポジティビティ・バイアス」と呼ぶのだそうだ。そこには、死後も意識や霊魂が残り、「死者に見られている」という被透視感があり、「死者を悪く言えば災いが降りかかる」といった、いわば祟りを恐れるような観念や、「死者を悪く言ってはいけない」という、日本人の道徳的な規範があると言われている(「死者は美化されるのか」)。

 その意味では、このムードへの傾斜には必然性がある。しかし、それで終わってしまっていいのだろうか。

 こうした中で、岸田文雄首相は7月14日の会見で、この秋に安倍元首相の「国葬」を行う方針を表明した。実現すれば、首相経験者の国葬は1967年の吉田茂元首相以来。歴代首相経験者の葬儀で慣例となっていた「内閣・自民合同葬」や、佐藤栄作元首相の「国民葬」よりも、いわば「格上げ」となる、全額国費負担で執り行われることになる。

 「憲政史上最長の8年8ヵ月にわたり、卓越したリーダーシップと実行力で厳しい内外情勢に直面するわが国のために首相の重責を担った」

 「外国首脳を含む国際社会から極めて高い評価を受けている」

 「わが国は暴力に屈せず、民主主義を断固として守り抜くという決意を示す」

 前記会見での岸田首相の発言にも、安倍元首相の美化を「国葬」に導く言葉が並んでいる。選挙の応援演説中に凶弾に倒れたという事実は、「暴力」「民主主義」という言葉につながることは理解できても、「国葬」にすることが「守り抜く」決意の表明とするところには、それ自体にいささか違和感もある。そういう「死」である、という位置付け、彼の「死」そのものを美化しているようにもとれなくないし、これを他の文脈同様、彼の過去につなげるのであれば、彼自身は、本当に「民主主義を断固守り抜く」姿勢で、国民と向き合ったのか、ということまで問いたくなってくる。

 しかし、そのこともさることながら、より「嫌な感じ」がするのは、社会に既に広がりつつある前記ムードとの関係だ。政府内部にも「国葬」とすることに、前記税金の使い途との関係で、行政訴訟の提起を懸念する声もあったと伝えられる。 しかも、そもそも国葬にする基準そのものが、国民には不明確のままである。 それでもこの方針発表に踏み切った背景には、このムードの中でならば、この異例の「格上げ」が圧倒的多数の国民に受け容れられるとの読みがあることが伺える。

 そして、そこには前記元首相の「罪」の追求を、彼に対する評価を確定することで、決定的に封じ込めてしまおうとする、政治権力者の強い意思を読みとることもできてしまう。彼を、国家として「国葬」とするに相応しい、「偉大な政治家」であると確定することで。

 私たちの「死者を美化」する観念が、政治的に利用され、彼らの政治的思惑の実現化をアシストしてしまわないか――。そこが私たちに問われているような気がしてならない。







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