2月20日に行われた検察長官会同で、稲田伸夫検事総長が、今年5月で開始10年を迎える裁判員制度に関して、注目すべき発言をしたことが報じられている(TBS NEWS 共同通信)。裁判所が裁判員の精神的な負担を考慮して、遺体の写真など刺激の強い証拠を採用しない傾向を取り上げ、「そもそも刑事裁判は証拠によって認定されるもの。必要な場合は証拠が採用されるよう努力してほしい」とした、というのである。
これを、検事総長による、公の場での裁判所の訴訟指揮に対する苦言として「異例」と報じたメディアもあったが(TBS)、とりもなおさず、それが裁判員制度についてであることは重大な意味を持つ。つまり、参加する市民への「配慮」によって、刑事裁判が歪められる恐れについて、制度導入から足並みをそろえてきたはずの検察庁のトップも、もはやあえて「異例」の言及をしなければならない、いわば見過ごせない状況に至っているとれるからだ。
実はこの3日後に、弁護士会のトップも、別の観点から裁判員制度の「配慮」を懸念する発言をしている。同月23日の定期総会で仙台弁護士会の新会長に就任した鎌田健司氏は、就任後の記者会見で次のように述べたと報じられた(読売新聞ニュース)。
「裁判員への行き過ぎた配慮で被告人の権利を守れなくなっているのではないか」
「刑事裁判は被告人の正当な権利を保障することが第一で、それがないがしろになっては本末転倒」
裁判員に配慮するあまり、刺激的な証拠を採用しないことによって、証拠認定が正しくされず、罪が適正に裁かれないことと、時間的な制約を含めて裁判員に配慮することで、正当な被告人の権利が守られないこと。どちらにしても、刑事裁判としてはアウトだ。
今回の報じ方を含めて、これまでのこの点に関するメディアの扱いは甘く、多くの大衆には、事の重大性が伝わっていないのではないか、と感じる。事は、市民が司法に直接参加するという制度に固執し、それを守るために、繰り出されている「配慮」が、本来あるべき刑事裁判を犠牲にしているという話なのである。
強盗殺人事件の公判で遺体写真を見た裁判員の女性が、急性ストレス障害になり、国賠訴訟に発展する事態が発生する一方、裁判員の無断欠席や辞退率が上昇し、依然として国民が背を向ける制度にあって、前記した「配慮」は参加市民のため、ということとされながら、背景には制度存続に焦る裁判所の姿勢も見てとれる。法曹二者による、「本末転倒」の警告は、そこに向けられているととるべきだ。
しかし、言うまでもなく、この制度をめぐる「本末転倒」は昨日今日始まったことではない。司法改革の目玉の一つとして、導入に前のめりになった制度推進者たちは、「配慮」につながることになった「裁く」側の負担も覚悟も伝えず、「市民参加」の意義ばかりを強調し、制度の危うさを覆い隠した。そして、そのこと自体が、「裁かれる側」が主体であるはずの刑事裁判にあって、あたかも参加市民が歓迎されるべき「主役」としてお膳立てされることに重きを置いた、「本末転倒」な制度であることを伝えない役割を果たしたのだ(「『裁く』覚悟を伝えていない裁判員制度」)。
いわば、刑事裁判を歪める「配慮」は初めから行われ、もともと「本末転倒」の危険をはらんだ制度だったのである。そして、最も罪深いと思えるのは、「改革」の名のもとに、それが十分に分かっているはずの、法律専門家たちまでが、こぞって制度を賛美し、導入の旗を振ったということである(「裁判員制度9年から見えるもの」)。今、この制度で起こっていることは、すべてそうして導入された「改革」の、当然の結果であり、そのツケといわなければならない。
裁判員制度開始10年を前に、法曹二者から示された「配慮」に対する警告から、今、私たちが最も気付くべき、そして見逃すべきではない、この制度の実態は、この点にある。