司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>




 

 まるで日本中が口裏を合わせたかのように、事実に目をつぶる――。一個人による性加害・性児童虐待の醜悪さは、もはや言うまでもないが、いわゆる「ジャニーズ」問題がはらむものは、それにとどまらない、それを許容し、見て見ぬふりをした社会の異常な醜悪さである。

 テレビを含むメディア、スポンサー、そして一部を除くタレントたちは、加害者によって張り巡らされた、影響力の網に絡め取られるように、それぞれの確信的な打算によって、不問という結論を選択してしまったといわなければならない。そして、そのきらびやかな網の外にいる視聴者、消費者もまた、その醜悪さに関心を持とうとしなかった。

 この国に発生した、というより、私たちの社会がはらんだ、私たちの中の異常さといわなければならない。

 タレントのキャスティングによるメディア支配が根本にあるのは明白だ。ただ、それとは本質的には無関係のはずの、個人の行状までが、そこに組み込まれることを許し、不問が引き出される関係。利益や関係性の維持をめぐる打算とは、逆にいえばそれを人質にとられていれることを自らに許す行為である。それは、「仕方がなかった」という言葉で置き換えるには、あまりに無責任な、確信的行為と位置付けるべきである。

 性加害を認定した再発防止特別チームの調査報告書公表を受けて出された各テレビ局の、ほぼ横並びの内容の声明の中には、この深刻で醜悪な作為への十分な自覚を読み取ることは難しい。「指摘を踏まえ」「許されるものではないという姿勢で」「真摯に」「決して許されないことは当然」。「謝罪」に類するところはなく、反省と読みとるのさえ難しい。前記確信的行為への認識を読み取れるところも全く見当たらない。

 同調査報告書には、「マスメディアの沈黙」という一項が設けられている。問題を取り上げた文藝春秋との訴訟結果すら「まともに報道されていない」点を「不自然」と指摘し、ジャニーズタレントの起用が出来なくなることを恐れたメディアからの批判を受けないことで、同事務所の隠ぺい体質が強化されていった事実に、簡潔に触れている。共犯性に強く踏み込んだ内容とはいえないが、明らかに確信的に加担した事実について、メディアは目を背けることはできないはずだ。

 9月29日付け朝日新聞朝刊は、オピニオン面「耕論」で、この問題を取り上げ、外部の弁護士やジャーナリストに、「社会はどう対処すべきか」などして語らせている。彼らの主張の中でも、なぜ、この問題が見過ごされたのかについて、朝日新聞も自己検証すべきことが指摘されているが、そもそもが、まず最初に、外部に「対処」を問いかけるべき問題なのだろうか、と思ってしまう。

 「検証」という言葉すら、似つかわしくなく感じる。彼らは十分に分かっているはずだから。「確信犯」としての、正直な「自白」あるいは、「弁明」を聞きたい。

 登場するジャーナリストの一人、津田大介氏は、ジャニーズ事務所のメディア支配によって、「公共的な領域」がゆがめられたと指摘し、そこを第三者委員会で検証すべき、と提案している。それ自体は、もちろん意味のあることかもしれない。

 しかし、あえていえば、第三者の検証を待たなければ、今回のことで彼が言う自らを含む、「公共的な領域」が歪められた事実を自覚できていないなどということがあり得るだろうか。十分で適切な自己検証のためにも第三者の検証が必要というのは分かるが、前記声明も含め、座りのいい再発防止策のようなもので、お茶を濁すのではないか、という感じを抱いてしまう。

 もちろん、メディアだけの問題ではない。前記したように、私たち視聴者、消費者も、そのメディアの姿勢のままに、一部の報道を目にしていながら、多くの人間が、噂、疑惑のまま片付けた。ネット空間がある今、既存のメディアに依存、盲信せず、あらゆるアンテナを張って、事実を直視しなければならない。

 残念ながら、そういう国にいることを私たちは、今、自覚しなければならない。そうしなければ、何度でも、見て見ぬふりの側の加担者になりかねないのである。



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