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法制審議会「新時代の刑事司法制度特別部会」に示された、取り調べの録音・録画制度の二つの制度案。「一定の例外事由を定めつつ,原則として,被疑者取調べの全過程について録音・録画を義務付ける制度」(第1案)と「被疑者取調べの一定の場面について録音・録画を義務付ける制度」(第2案)。要は原則全過程義務化という立場が前者で、類型的に限定して義務化するのが後者ということになる。全過程可視化を求めてきた弁護士会や大マスコミの立場からすれば、概ね前者は対象を裁判員対象事件に絞っている点で不十分、後者は論外という評価になっている。

 

ただ、捜査側はあくまで「供述が得られなくなる」という点で、依然、抵抗していると伝えられる。その立場からすれば、誤認逮捕や冤罪事件で、自白強要・誘導が問題になり、もはや「全過程可視化しかない」とされたこの期に及んでも、捜査側はなんとかその範囲を狭めたい、と抵抗の意思を示しているということになる。

 

この制度案が、取り上げられた2月14日開催の同特別部会第23回会議で、委員の上野友慈・最高検公安部長が、その立場から主張している。彼も、あくまで「録音・録画下では自由な供述ができないということは一般的にもありますし、被疑者の特有の心理状態として、そういうことも私の経験でも間々あること」としていますが、それに加えて、こんな主張を展開している。

 

「私ども取調官の立場からいたしますと、どのような場合に録音・録画が義務付けられているか明らかな制度でございませんと、我々は法律上の義務を負うことになりますので、義務の履行ができなくなってしまうということで非常に困惑いたします」

「取調官が例外事由の該当性判断について判断を誤りますと、私どもの方が刑訴法違反をしてしまうということになります。私どもは、法律を誠実に執行する立場にございますので、法律に反するおそれのあるようなことは避ける、例外事由に当たるかなと思いつつも録音・録画をしておこうかという気持ちになってしまうのではないかと、そういう活動が萎縮するという表現が良いかどうかは別ですけれども、そうすることによって本来、録音・録画しなければ得られた供述が得られなくなるケースが出てくるのではないかと、そういう危惧をしております」

 

前者は、第1案の場合の余罪が対象事件か非対象事件なるかでの混乱の問題、後者は現場が「例外事由」の判断で迷い、結果的に「事案の真相の解明や真犯人の処罰よりも、録音・録画することを優先してしまう」というリスクをいうものである。要は、現場の混乱と真相解明・真犯人処罰への影響を挙げての、対象絞り込み・限定の必要性強調である。

 

こうした捜査側の姿勢に対して、この日、同じく委員の映画監督、周防正行氏が言った、次の言葉がとても印象的なものだった。

 

「今までの警察・検察関係者のお話を聞いていると、今までの密室での取調べが事案の究明を果たしてきたと、真相が明らかになってきたんだと、そういう前提でお話をされているのには驚くしかありません。そもそも、そうだったとしたら、この会議は何で開かれているのか。警察・検察関係者の方は出発点を、あえてそうされているのか、本当に気が付いていないのか、僕には理解できませんが、話を聞いていて、今までの取り調べが本当に日本国民全員が確かに真相の究明を果たしてきたんだと考えていたら、何でここでこんな話をしているんだ。そういうことになりませんか」

 

これは、捜査側の心底を完全に見抜いた発言といえます。前記のような真相解明への影響をいう主張は、これまでの密室での取り調べを基本的に肯定し、この期に及んで真に反省する立場ではない、そして、それは周防氏のその後の発言でも出でくるが、要はそういう従前のスタイルが、真相解明「最良の取り調べ」と頑なに信じる彼らの姿である、ということになる。いうまでもなく、真犯人以外の人を自白に追い込んだり、「犯人」として扱った前例がある組織にとって、それを真相解明に「最良」といえないことは明らかなのである。

 

ただ、一つ気になるのは、やはり大衆の目線だ。捜査側の姿勢のおかしさは、決して分かりにくい話ではない。しかし、捜査側への不信の目線は、彼らの言い逃れを防止するのに、果たして十分だろうか。検察不祥事がクローズアップされた会議当初と同じ不信感を社会は維持できているだろうか。冤罪は認められなくても、犯罪者は逃すなという世論はある。周防氏もいうが、捜査側が当初にくらべて徐々に一部可視化で済ませる「本性」をあらわしてきているのだとすれば、その向こうに、ほとぼりが冷めたとみての、世論をにらんだ対応、いわばこれで通用するという自信を持ち出しているともとれなくはない。

 

4月29日付け「朝日新聞」朝刊の「リレーおびにおん」の「私の必殺技」には、元東京地検特捜部副部長の永野義一氏が、同部在籍中の経験をもとに、「荒っぽい取り調べ」をせず、検察官自らが自分をさらけ出し、それを勾留機関の20日間続けることで、被疑者と「次第に心が通じあい、真実を話してくれるように」なったという話が紹介されている。あくまで特捜部での、検察官としての取り調べスタイル、そのあるべき形のような話であり、このなかには一行も「可視化」に関して触れられておらず、永野氏自身が前記「全過程」をめぐる議論についてどういう考えかは分からない。

 

ただ、このエピソードは、同氏の意図、あるいはメディアの意図に関わらず、少なくとも前記捜査側の意向からすれば、こうした検察側の心を通わす取り調べを支える「密室」という環境、あるいは録音・録画が足を引っ張りかねない場面として結び付けたいものにとれてしまう。そして、それもさることながら、この記事がそういう方向で読者に読まれてしまわないか、読み過ごしてしまわないか、そのことが気になってくる。

 

私たち目線についても、私たち自信が、もう一度自覚しなければならない時のように思えてならない。



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