司法の問題を議論する人間たちの間で、改正と「改正」が違う意味であることは、常識といっていいかもしれない。
表記方法のことだが、改正が文字通り、正しく改めることであるならば、「改正」は、カギかっこを付けることで、およそ「言われているところの改正」という意味になり、実質的には、正しく改めるものということに異論をさしはさむ意思を示している。あるいは、この動きに対して、不同意の姿勢を明確にするときに使われる。
かつての弁護士会の法改正をめぐる運動を振り返れば、この用法は何度となく使われてきた。
刑法「改正、監獄法「改正」、少年法「改正」。さらに、批判的な論調を強調する場合、結果を浮き立たせて、「改悪」と言い換えることもあった。
実際には、いずれの用法も、弁護士会ならずとも、あらゆる運動体が用いてはいる。ただ、あえていえば、法律専門集団である弁護士会が法制度の改正にかぎを付けることは、やはり重みを持ったアピールであった。
と同時に、社会正義と人権の旗の下、そうした形で筋を通す団体、あくまで抵抗する団体であることもまた、それが物語っていたように思う。
言葉遊びをするつもりはないが、これまで改正にカギを付けることに、一応一丸となったようにみえた弁護士会が、今回の司法改革にかぎをつけることには一丸となっていない。
「弁護士は改革という言葉に弱い」と言った弁護士がいたが、改革の評価は分かれ、そこに前進的期待をみた人間は、積極的に参加することを説き、また、ある人間たちは改革に疑問を抱きながらも、情勢論から「抵抗勢力」とされることを恐れ、推進派にやむなく加担し、そしてある人間たちは、それでもあくまでかぎを付けることを訴えた。
考えてみれば、これまでの弁護士会は「改正」とカギを付けても、多くの場合、その意味は改「正」だったということもできる。当該改正には、あくまで反対だが、正しく改めることには、反対するつもりはない、と。自ら交渉を拒否するのではなく、テーブルにつき、あるいは対案を出すという積極的姿勢を是とする姿勢があった。
今回の改革を積極的に関与し、参加することで自分たちの主張を取り入れさせようとする、いわゆる「せめぎ合いの論理」で、弁護士会の中の推進派がかかわっていったのも、そうしたそれまでの体質があったことが関係している。
しかし、今回の司法改革が、一丸となってカギを付けるのではなく、弁護士会自らも名乗りを上げて、自らも打って出た、「オールジャパン」の大きな改正運動であったとき、皮肉にも弁護士会はこれまでにないような分裂状況を経験することになってしまった。
改正の主体をあくまで自認するものは改革といい、もはやそこに当初の改正の姿を見ない、別のものになってしまったと見る者、予想通り、悪い予感が的中したと見るものは「改革」と位置付けているように見える。
大マスコミは依然、この改革にカギかっこを付けようとする弁護士たちには、「抵抗勢力」との悪のレッテルを張る構えである。一度、協力姿勢を示した弁護士会の増員慎重論には、「改革の理念を忘れたか」とばかり、バイブルである司法審最終意見書を突きつけて、すぐさま容赦なく、「反革命」的ならぬ「反改革」のレッテルを張る姿勢だ。
だが、いま法曹養成や法曹人口問題などを中心にほころびが出ている改革の論議は、いずれも「バイブル」をはじめ、どれだけこれまでの既定方針に縛られない議論が出来るかで、今後に道が開けるかどうかが決まるものが多数あるように思える。
この時に、弁護士会がレッテルを張られるのを恐れ、また、それを信じてしまうかもしれない国民の目線を恐れ、本質論よりも情勢論を優先して、問題のある改革、もしくはその継続にカギをつけられないということが、あっていいはずがない。逆に言えば、弁護士会自身が協力者としての「反省」に立って、改革を「改革」として見直せるかどうかで、改めてその存在意義が問われてくる局面になってきたように思える。