「国民感情で司法が揺さぶられている」として、昨年、民主党議員らが検察審査会の見直しを打ち上げた。だが、直接のきっかけは、いうまでもなく、小沢一郎氏に対する「起訴相当」の議決である。さすがに、御身内からも、「場当たり的との批判を受ける」との声も出た。
何せ時は、「民意を司法へ」の「裁判員時代」である。おまけに刑事裁判への市民関与という流れならば、検察独占の訴追判断にも、「もっと民意を」とばかり、検察審査法を改正し、それに民主党は賛成している経緯がある。
だが、小沢家臣団のご都合主義との見方をひとまず脇においてみれば、この小沢氏を検察と検察審の判断を分けたのは、端的に言えば、法律に基づく有罪認定への確信なき案件を起訴しなかった検察判断と、国民感情や社会的常識といわれるものが混在した「民意」の名のもとに、「疑わしきは裁判の場で白黒つける」とした検察審判断ということになる。
報じられている検察審議決には、こんな記述がある。
「『秘書に任せていた』と言えば、政治家本人の責任は問われなくていのか」
「近時、『政治家とカネ』にまつわる政治不信が高まっている状況下にもあり、市民目線からは許し難い」
「小沢氏を起訴して公開の場で真実の事実関係と責任の所在を明らかにすべきである。これこそが善良な市民としての感覚である」
いくら「善良な市民感覚」といわれても、刑事司法という場面でみると、背筋に寒いものが走る。
10月31日の朝日新聞、オピニオン面には、今回の強制起訴による小沢氏の初公判を受けて、東京本社の市川誠一・社会部長が、この件での朝日の基本的な報道姿勢を述べている。もちろん、そこは朝日らしく、検察審という「民意」が2度にわたり「起訴すべき」と議決したことについて、「その判断はやはり重いと言わざるを得ません」としながら、こう書いている。
「もちろん強制起訴という制度は、一歩間違えれば、人の自由を不当に奪う危うさがあります。一方で権力犯罪などには有効との見方もあります。『有罪の可能性があるなら、検察の不起訴で終わりにするのではなく、裁判所に判断してもらおう。そこでの結論には、有罪無罪のいずれでも従おう』。そういう新しい手続きを社会が許容するのかが問われています」
検察審「民意」反映の方向を後押しする言い方ともとれる半面、そうした朝日スタンスでも、この強制起訴の危うい一面とこの流れを許容するかを社会に問いかけざるを得なかったようにもとれる記事である。
朝日がいうように、起訴されること自体、当事者には多大な不利益である。だが、そのこともさることながら、問題はこの形があるべき司法なのかということだ。法律ではなく、感情が混在する民意のフィルターにかけられて起訴された先に待っているのは、場合によっては同様のフィルターがかかった司法判断かもしれない。これは、国民の納得あるいは国民に対する説明責任が、本来別である司法の役割に食い込んでくる、同一化しようとする方向にみえる。
さらに、「疑わしきは裁判へ」という大衆訴追社会は、本当に大衆自身がイメージできている望ましい社会なのかどうか。朝日の問いかけをみるまでもなく、そこには不安がよぎる。
検察審見直しを求めていた民主党議員の一人は、マスコミに対し、「裁判員制度も検察審査会もおかしい」と語っていた。裁判員制度推進派が、この国の市民参加の「成功例」として強調してきたのが、この検察審である。だが、徐々に本性を現してきている「裁判員時代」の危うさもまた、この「成功例」から見えてくる。