司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

3年前に裁判員裁判がスタートする直前、マスメディアでやたらに目についた切り口があった。

 「裁判員裁判だったならば」

 キャスターや記者がこぞってこう言ったのは、職業裁判官によって出された判決を挙げて、市民が参加する裁判だったならば、こんなことにはなっていない、ということ。それは、あたかも大衆が「そうだ、そうだ」と言いそうな、判決批判の感情に乗っかって、既に参加に消極的な世論も明らかになっていた同制度を持ち上げているように見えた。

 だが、最も嫌な感じがしたのは、この煽られた「市民参加」の裁判への期待こそ、この裁判が宿命的に、社会にたらすことになる状況を暗示しているに思えたからである。市民裁判官だったならば、もっと重罰を科していた事件、あるいは死刑に値していたと感じる事件。当然、そうした時に被害者感情に共鳴した市民感情も、強く反映する、あるいは排除できない、この「期待」の行先はどうなるのか、司法を変え、社会を変えていくのではないか、という暗い予感だった。

 少なくともその感情を請け負う形になる制度への「期待」についていえば、そこには大衆自らの安全やそのための排除の論理がそれを強く裏打ちすることになる。大衆は自らがそうした犯罪の被害者になること、なった場合を思い浮かべ、そうならないための「安全」を当然のように選択するだろう。それが、この制度が期待する「国民の常識の反映」ではないか、と堂々と胸を張って。

 この国で裁判員制度が生まれた前年の2003年、ドイツでひとりの法学者が発表した概念が、議論を巻き起こすことになる。ギュンター・ヤコブスが唱えた「敵味方刑法」(Feindstrafrecht)である。この考え方のもとでは、犯罪は、ルールを守らないこと、承認しないことではなく、社会に対する危険としてみなし、刑罰は,そのような危険を取り除くための手段として理解される。つまり予防拘禁である。犯罪者は、市民の最低限の責任を果たさず、自由な社会への参入を自ら拒否したのだから、「敵」として扱われてもよいとする考え方だ。

 批判的な議論があるなかで、現行法の見方、つまり、現在の法律を説明するうえでは有効という見方があり、ヤコブス自身の狙いもそこにあるとされている(玄守道「近時の刑事立法に対する批判的検討――何が問われているのか?」立命館法学2009 年5・6 号)。その意味では、1990年代以降の、支払用カード電磁的記録に関する罪,危険運転致死傷罪,集団強姦罪の新設、有期自由刑の引き上げ、薬物犯罪関係立法、組織的犯罪処罰法、ストーカー規制法、DV防止法など、処罰範囲拡大・重罰化を特徴とした刑事立法も、すべて大衆の「安全」「安心」とつながっているだけに、その目的において、「敵味方刑法」の議論につながるとみることができる。そして、その先に裁判員制度の登場もあった。

 7月30日に大阪地裁で出された姉を刺殺したとして、殺人罪に問われた無職男性に対する裁判員裁判の判決。被告人には広汎性発達障害の一種、アスペルガー症候群の影響があったとしながらも、「家族が同居を望んでいないため障害に対応できる受け皿が社会になく、再犯の恐れが強く心配される。許される限り長期間、刑務所に収容することが社会秩序の維持に資する」として、検察側の懲役16年の求刑を上回る同20年の刑を言い渡した、というものだった。

 治安維持と排除が、「国民の常識」と示されたととれるこの判決を問題視する、裁判員制度反対派の文面のなかに、次のような文面を見つけた。

 「『司法審意見書』は『(国民は)自らのうちに公共意識を醸成し、公共的事柄に対する能動的姿勢を強めることが求められる』と言った。『敵味方刑法』の下では、処罰される対象は処罰する『我』とは異質の『敵』と位置づけられ、刑罰の目的は社会復帰から隔離排除に重心を移動する。何をしたかよりも誰がしたかを重視し、社会があらためてどう迎え入れるかでなく自分たちの世界からいかに確実に隔離するかを考える」
 「裁判員制度は、我らの世界の外敵から守るのは自分たち自身だという意識を個々の裁判員に持たせ、そのために進んで砦の前面に立ち敵に向かって矢をつがえることを求める仕組みである」(「『アスペルガー判決』こそ裁判員裁判の本性」裁判員制度はいらない!全国情報第35号)

 「裁判員裁判だったならば」の先に感じた暗い予感が、現実化しているように思えてならない。

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