死刑の執行方法について、現在の絞首刑を改めるべきかどうかの検討が、法務省内で進められているということが伝えられている。滝実法相は、8月7日の記者会見で、現段階で具体的な方向性を持っているわけではなく、幅広く情報収集をしていく考えを示した。
もちろん、この議論の焦点となるのは、現在採用されている絞首刑が「残虐な刑罰」に当たるのか、そうだとすれば、代替する方法は何が考えられるのか、ということに尽きる。米国で採用されている薬物投与に比べて残虐とする評価は以前からあり、こうした動きは、より苦痛を感じさせない人道的な方法の模索として注目する向きもある。
しかし、やはりこの問題は、一筋縄ではいかないものをはらんでいる。それは、裁判員制度との関係である。そもそも、この議論の背景には、同制度の導入によって、市民が死刑判決にかかわることになったことで、死刑のあり方が問われ出したこともある。つまりは、「より人道的」あるいは「安楽死」的な方向が模索されることを、裁判員制度との関係でどうとらえるのか、ということだ。
死刑への市民判断の躊躇というテーマは、死刑制度存置を前提とするならば、あるいは裁判員制度の問題、つまり適正な科刑という意味において、プロの裁判官による職業意識のなせることであり、一市民に任せることの無理として、とらえることができ、また、それを浮き彫りにするものともいえる。
この点からは、死刑の執行方法がより残虐でないものに変わることは、その躊躇の除去、あるいは緩和する方向として、裁判員制度の課題をクリアする方向に働くとみることもできる。同制度推進の側からすれば、そこに意味を見出す話になる。
しかし、一方で「安楽死」化によって、残虐性が薄まったとみることによって、死刑制度そのものへの認識や是非の議論が進まなくなる可能性もある。死刑存置の問題性としていわれるのは、残虐性だけではない。冤罪・誤判の場合の危険性などの論点が、抜け落ちることにもなりかねない。もちろん、死刑廃止の立場からすれば、「安楽死」化によって、裁判員の死刑選択へのハードルが下がるのであれば、そのこと自体の危険性が指摘されることになる。
もっとも、この議論そのものに対して、別の見方もある。裁判員に選ばれることを意識しない市民感情に、もし、この問題をゆだねた場合、果たして絞首刑が「残虐な刑罰」という結論になるのか、ということである。凄惨な殺され方をしている被害者の立場に立って、こうした議論のそのものを否定する意見もないわけではない。
死刑を合憲とした1948年の最高裁大法廷判決のなかに、次のような下りがある。
「ある刑罰が残虐であるかどうかの判断は国民感情によって定まる問題である。而して国民感情は、時代とともに変遷することを免かれないのであるから、ある時代に残虐な刑罰でないとされたものが、後の時代に反対に判断されることも在りうることである。したがつて、国家の文化が高度に発達して正義と秩序を基調とする平和的社会が実現し、公共の福祉のために死刑の威嚇による犯罪の防止を必要と感じない時代に達したならば、死刑もまた残虐な刑罰として国民感情により否定されるにちがいない」
この立場でみると、少なくとも残念ながら、今の日本が後段のような、「平和的社会」が実現しているとは思えない。そして、前段のような国民感情の変遷が、果たして絞首刑に対して、存在しているのかも、不透明と言わざるを得ない。それだけに、この議論の行く先が、一体、何を変え、何を守ることになるのかは、慎重に見定めていかなければならない。