司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>




 日本の犯罪報道は、「無罪推定」と言う点で、根本的問題を抱えており、それを解消できないでいる。無罪を推定するという方向が消え、事実上の「犯人視報道」がまかり通る。和歌山県の資産家死亡をめぐり、殺人容疑で逮捕された元妻をめぐる最近の報道に、ネットでは一部法律家から強い危機感が示された。

 ロス疑惑事件、松本サリン事件、和歌山カレー事件など、その都度、日本の大手メディアは、その過熱報道の弊害を指摘されてきたが、残念ながら現在まで「無罪推定」に引き付けた改善がなされてきたようにはみえない。直接証拠がなく、容疑者が否認している場合に、本来、この原則が遵守されないというのは、人権上最も危険なのであり、また現に被害者も出ている。

 ところが、こうした事件に限って、前記犯人視報道が現れている印象が強い。大手メディアのそうした報道は、もちろん警察情報によるところが大きいといわざるを得ないが、前記のような証拠不十分な事件ほど、メディアを通して世論を味方につけるために、警察側がより積極的にリークしているのではないか、ということまでささやかれている。

 しかし、それをチェックする側であるはずのメディアが、むしろそのリークを積極的に利用し、まんまと犯人視世論形成の手助けをしている形になっていることに大きな問題があるといわなければならない。

 この状況は、どうして大きく変わらないのか――。まず、メディア側の「無罪推定」という原則に対する根本的な認識不足を疑う必要があるだろう。もちろん、原則への認識不足だとか、犯人視世論形成の手助けなどといえば、彼らは完全否定し、猛反発するだろう。しかし、有り体にいえば、これは程度が問われる問題なのだ。つまり万に一つも無罪を有罪視してはならないという危機意識がなければ、そもそもが成り立たない原則なのである。

 そして、世論誘導に対する危機感、自覚が、決定的にメディア側にかけているという面もある。つまり、その万に一つを想定しない形の情報が流れた場合、国民がどう反応し、それがどういう結果を招く恐れがあるかが、取材競争の中で考えられなくなる、感覚がマヒするという問題である。

 メディア側は、しばしば国民の「知る権利」を盾に、大衆が求めている情報を提供すると抗弁する。それはこの現状に照らして嫌な取り方をすると、大衆にある犯人視、疑念にこたえている、そういうものがあるからこそ、われわれが伝えているのだ、と言っているように聞こえるときがある。視聴率や部数というビジネスにかかわる面でとらえれば、現実的には直結している発想かもしれない。それだけに、誘導の自覚は、彼らのなかで後方に押しやられているのかもしれない。

 実名・顔写真報道の積極的意義は、その被害との間で、フェアに検討されているだろうか。そもそも「容疑者」として「さん」付けしない(「容疑者」は事実なのだからという思考停止)、「容疑者」段階で、「男」「女」と「男性」「女性」を意図的に使い分けている犯罪報道の見直しが検討されないところにも、彼らの誘導に関する危機感の程度を見ざるを得ないのである。

 もとより、彼らの抗弁に利用されるような大衆の意識・認識に問題がないとはいえない。犯罪視報道に社会の批判が集まれば、彼らは無視できなくなる。そこまでの批判がなければ、彼らは変わらないという関係にはある。しかし、仮にそうした現状があるならば、なおさら「社会の木鐸」としての役割が問われることもいうまでもない。

 そうした意識レベルの彼らが、市民の良識を反映させる意義を唱えて、裁判員制度を擁護するというのも、何かおかしな気がしてくるし、ここでも彼らの危機意識のなさを感じてしまう。

 「法教育が必要なのはむしろ報道関係者ではないか」。ネット上で、こう語っている弁護士がいた。「テレビや新聞に書いてあるから」と疑わない市民は、現実的に問題はある。しかし、いうまでもなく、メディアの側がそれをいえば、自己否定であり、姿勢が問われる。正しく導いているかを自戒するなかで、犯人視報道の問題を「無罪推定」の意義とともに、彼らが自覚しなければ始まらないのである。

 大衆が変わるためにも、まず大手メディアに気付かせる必要がある。



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