シンプルに考えれば、今、司法改革で問われているのは「価値」である。別の言い方をすれば、「改革」のシナリオを最も追い込んだのは、「価値」の下落であるといっていい。法曹、実質は弁護士の大量増員によって、資格として弁護士の「価値」が急落し、その大量増員政策を支えるはずだった、新法曹養成の中核とされた法科大学院に入学する「価値」も見切られてしまった。
「価値」はリターンであって、それだけではないとはいえ、経済的な意味がやはり大きかった。かつて弁護士資格は、たとえ司法試験が狭き門であって、時間とおカネを継ぎ込んでも、その先に十分取り返えせるだけの経済的価値があり、それこそがチャンスとして、社会人を含めた広い層にチャレンジを魅力あるものにしていた。弁護士の過剰状態で経済的にリターンが見込めないのは、まず、「価値」を見切られ、志望者が去る決定的な要素となっている。
ただでも、法科大学院と新プロセスの強制化(修了の司法試験受験要件化)によって、時間的経済的負担を強いられるのである。資格の「価値」の回復がなく、つまりは増員による過剰状況、需要に対する供給過多が解消されなければ、法科大学院にチャレンジする以前に、法曹志望の「価値」が回復することはない。
それを考えれば、いまだに法科大学院サイドから、司法試験の合格率が低い、しかもそれを試験の側の問題として、法科大学院の実情に合わせるべきであるとか、予備試験を「抜け道」として、それを制限することで本道を守るべき、という意見が出されることは、全くその問題の根本を分かっていない、というか認めようとしない考えとしかいいようがない。旧司法試験が今よりも低い合格率でも、多くの受験者を獲得していた、という事実の提示で決着する話といってもいい。制度存続だけから逆算した苦し紛れの言い分にしかみえない。
文部科学省が今月、中教審特別委員会に提示したとされる法学部3年、法科大学院2年の5年の法曹養成コース案にしても、同様の苦し紛れ感が透けている。確かに新法曹養成によって法学部の「価値」が下落しているし、学部4年と現行既習コースとの組み合わせで考えれば、1年は短縮される。だが、このたった1年の短縮が魅力的な「価値」の提示であるかもさることながら、法学部・既習を柱にするような志望者回復策は、そもそも未修を柱と掲げた新法曹養成の多様性確保の発想ではない。チャレンジ機会の確保というい意味では、ますます旧試験でいい、むしろよかった、という話になっておかしくない。
いうまでもなく「価値」の判断は、「提供する側」ではなく、「提供される側」の視点で考えなければ、現実に辿りつけない。「提供する側」が、その思いや掲げる理念で、どんなに「価値」があるといっても、「提供される側」がそれを認めるとは限らない。それは有識者や専門家がいかに自信をもって、「お墨付き」を与えたとしても、たとえ、当初、そのこと自体に「価値」が見出されても、それが「提供される側」の視点を伴っていなければ、ほどなく見離され、「価値」として扱われなくなる。
司法改革を見てくると、推進者はそのことを本当に分かっていなかったし、「改革」が一つの結果を出した今もなお、制度維持が自己目的化したような、「改革」見直し論調が繰り出されるのを見るにつけ、ほとほと分かっていない、ということを感じてしまうのである。