市民感覚を裁判に反映させるとか、裁判を分かり易く身近なものにといったことが喧伝された裁判員制度が導入されて、15年以上たったが、肝心の市民や社会の目線は、何がどう変わったのだろうか。ネット空間では、さまざまな刑事裁判に対する、相変わらずの批判的論調が聞かれるが、そのなかで気になる傾向もみられる。
「市民感覚と乖離しているとされたはずなのに」。つまり、「市民感覚」を盾に、逆に「乖離」しているという論調が、むしろ目立っている印象があるのだ。高裁での職業裁判官による判断もさることながら、裁判員制度対象事件以外の量刑も含めて、司法全般に対する、是正されるべき「市民感覚との乖離」が強調されているようになっているととれるのである。
これを、歓迎すべきとする人もいるのかもしれない。まさに市民が自らの感覚と司法との距離をより意識し出した、そのきっかけを作ったのは、裁判員制度の導入なのだと、手放しに礼賛する人も制度推進派の人間もいるかもしれない。
しかし、この「市民感覚との乖離」が振りかざされる司法への批判は、一方で極めて危ういものをはらむことを我々は知らなければならない。なぜならば、司法判断は、常に多数の「市民感覚」を反映することが、その目的ではないからである。この社会の多数派が持っている「市民感覚」とそぐわない結論でも、時に証拠と法に基づいて判断を下さなければならない、むしろそこで超然とした姿勢をとらなければならないのが司法なのである。
これは、裁判員制度導入の功罪と言えるものなのかもしれない。大マスコミを含む制度推進派は、この「市民感覚の反映」を裁判員制度のメリット、あるいは導入の意義として強調し、礼賛した。しかし、制度導入ありきの流れのなかで、その中身は刑事裁判の理解を前提にするには、結果的に偏ったものになっていたといわなければならない。
例えば、「市民感覚」の反映は、社会にある感情やお気持ち、気分が裁判に常に反映した結論を導き出すことを意味しない。あくまで法と証拠に基づいた結論でなければならないが、制度推進論は、その取捨、区別の必要性と中身の違いを分かり易く説明し、クギをさしたといえるのだろうか。
事実認定において、職業裁判官の、いわば社会常識不足論のようなイメージも広がっている。彼らの常識があまりにおかしいから、市民の感覚がそれを是正すべきだし、それで妥当な事実認定を導き出せるのだ、と。しかし、この論法は、漠然としていて、どこまで現実を語り、どこまで通用する話かも不透明だ。あくまでイメージであり、逆に無作為抽出の市民の常識が常に優位とするのは、制度としてのあくまで仮定、イメージのようにも取れる。
しかも、裁判員制度においては、市民は量刑にも参加する。量刑は、刑罰の本質や目的を踏まえ、犯行動機や態様など犯罪事情や情状、刑の均衡などを考慮して判断する専門的知見や経験に裏付けられた専門的判断ととらえている人間は、法曹界にも多い。そもそも職業裁判官が適切に説明すれば、素人でも大丈夫といえるものかは疑問なのである。その量刑に対して、「市民感覚との乖離」がどこまで振りかざれていいのか、という市民への理解も議論も注釈なく、制度は導入されている。
程度の問題を強調する意見もある。「乖離」があまりにも存在し、放置できなくなったから、是正しなければならなくなったのだ、と。しかし、この見方もどこまで制度導入の現実と噛み合っているのかは分からない。裁判所は裁判員制度について、途中から完全に、裁判に対する国民の理解増進論になった。制度はそれに寄与するものだというとらえ方で、現行裁判の不当性が「市民感覚」を取り入れなければならない程度に至っている、とは一言も言っていないし、それ認めて反省したわけでもない。
どちらかといえば、裁判が身近になることで、市民の理解が広がり、さらにともに裁く、いわば「共犯」関係によって、裁判批判をかわせるという狙いまで言われている。百歩譲って、裁判への理解を進めたかったという見方ができたとして、その一方で裁判の本質がきちんと理解されないまま、市民が裁判の結論を批判する傾向が強まるのであれば、何の意味があるだろう。
裁判員制度導入を機に、市民がより「市民感覚」に胸を張り、司法との「乖離」をより鋭く指摘するようになっているとすれば、その現実は、諸刃の剣というべきものかもしれない。それは、本当に司法の問題性を浮き彫りにする場合があったとしても、暴走すれば、人民裁判であり、あるいは「乖離」こそが健全となるかもしれない。
「市民感情」に合わないと感じる、司法の結論に接したとき、私たちはそれをなぜ、司法が導かざるを得なかったのかまで一旦立ち止まって考え、「乖離」という言葉で批判すべきか判断する――。そうした冷静さの必要性をわれわれは自覚しなければならないし、また、司法は根気強く社会に向き合い、それを求めていかなくてはならないはずである。