裁判とは、当事者にとって、さらに社会にとって、いかなるものなのか。そのことについて、司法関係者が本当に理解し、向きあってきたのか――。にわかに注目されはじめている、わが国司法における、膨大な裁判記録の廃棄の現実は、そのことを根本的に問い直すものにすべきといえる。
日本において、ごく例外除き、一定の保管期間を過ぎたら、原則破棄されている。しかもその最大の理由は、保管スペースの問題といわれている(「“捨てられる記録”は誰のものか」NHK)。要するに、その原則に基づく「捨てろ」の最高裁の指示に、従って捨ててきた。まさにそれだけ、といっていい、見過ごしてきた現実がある。
一般市民はもちろんのこと、裁判当事者も法曹関係者の多くも、そもそもそこまでの事実を認識してこなかった現実はある。やはり、あえて問われるべきは、法曹関係者の問題意識だろう。
一つは、裁判記録の価値に対する意識の問題。冤罪事件など過去の裁判検証のための記録の価値は、当然に法曹関係者は理解している立場にある。その一方で、日々事件処理に当たる実務法律家にとって、新たな担当案件とのつながりで関係性が生まれることは意識していても、全般的に「歴史的価値」にこだわる意識がどこまであったのかは不透明な部分もある。
資料価値のあるものを残す「特別保存」のルールがあっても、その基準や現実的な運用に必ずしも十分、弁護士会などが目を光らせてきたわけではなかった現実ともつながっているようにとれる。
さらにもう一つ、根本的なことは、裁判資料の本当の帰属に関する意識の問題。最高裁の管理下にあったとしても、それは本来、当事者や国民のためのものという価値意識が、法曹関係者全般にどこまであったのか、という疑問がある。最高裁の支持で、原則捨てられている現実に、国民のための「価値」を守るという視点に、最も立ち得る立場の人間たちが、そういう意識ではなかったようにみえる。
いわゆる「平成の司法改革」でも、この意識があれば、ここに当然スポット当てた議論も政策検討もあり得たはずである。裁判所そのものの内部的な運用にかかわる事柄まで、踏み込んだ視点がなかったといえば、それまでだが、ここにも「改革」の反省材料はあるようにも思える。しかも、皮肉にも弁護士会は、この「改革」に「市民のための」というスローガンを掲げていた。裁判記録の「市民のための」資料価値は、守るべき対象として、すっぽり落ちてしまったことになる。
「事件記録の廃棄は、いつか全ての事件記録を閲覧でき、事件の真相に近づけるかもしれないという私たち遺族の淡い期待すら奪い去るものであり、事件記録の公的資料としての重要性に照らしても大きな問題をはらんでいる。私は、裁判所のずさんな記録管理体制を強く非難するとともに、記録廃棄に至った原因や背景事情の徹底した調査を裁判所に求めてきた」
記録廃棄の対象となった重大少年事件として注目された 1997年発生の、いわゆる神戸連続児童殺傷事件で次男。淳君(当時11歳)を失った父親・土師守さんは、この問題についてこうコメントしている(「相次ぐ少年事件記録廃棄」ラジオ関西トピックス)。
あるいは法曹関係者にとっては、判決で事件は終結しても、当事者にとっては必ずしも終結しない。そのことを土師さんの言葉は、訴えかけている。保管スペースという問題の前に、なんとかしなければならないという積極的な取り組みをしてこなかった意識の欠落そのものに、法曹関係者も、そしてわれわれも改めて向き合う必要がある。