司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 今回の司法改革で、法科大学院制度導入を現実的にもっとも後押ししたといえるのは、ある意味、この制度に与えられた法曹量産計画という役割そのものであったということができる。法曹人口を急激に増加させるという「改革」の路線がまず既定路線としてあり、そのためにそれまでの司法試験・司法修習という旧体制ではない、理想的な教育を施すプロセスが必要ということであった。量産体制で「質」を確保するには新プロセスがふさわしいというロジックもあった(「増員政策に乗っかった法科大学院制度必要のロジック」)。

 

 もともと長く司法修習を中核としてきた法曹養成に自信をもっていた最高裁には、この新制度に懐疑的な部分があったが、最終的に「改革」の流れのなかで、年間3000人合格まで目指すという量産計画の現実から、もはや修習のキャパの問題として、この新プロセスを受け入れた(年間1500人限界説)。そして、全く実績が未知数のこのプロセスの「理想的な教育」実現の部分に、「お手並み拝見」的な視線を送っていたのだった。

 

 この法科大学院制度に目的を与え、推進する力を与えた法曹量産計画との関係は、見方を変えれば、法曹資格の門戸開放でもあった。いうまでもなく、「狭き門」であった司法試験が、この新プロセスによって、多数を通過させるものになる、ということを意味したからである。

 

 もちろん、ここは微妙な表現になるが、「改革」が直接的に司法試験に簡単に合格できるものになる、ということをうたい文句にしたとはいえないし、少なくとも法曹界側が表向きそれを受け入れた、とはいいにくい。つまり、基本的には前記した新プロセスが実現させるという未知数の「理想的な教育」が、従来の司法試験レベルに達した人材を養成するという理解だった。新制度でも「絶対に質は落とさない」という、当時の最高裁、法務省関係者の言葉には力がこもっていた。

 

 しかし、一方で制度は別のイメージに乗っかってきたことも否定できない。当初、銘打たれた修了者の「7、8割合格」は、志望者をはじめ社会に対して、長年「狭き門」として知られた司法試験が変わると受け取られたはずだし、「改革」論議のなかでは、旧試験は不当に「狭き門」であった、つまり、法曹界側の事情(弁護士の競争回避など)で、本来、合格させても問題のない人材を落としてきたという、否定的な扱いもされた。

 

 そして、そのことはいまや、法科大学院制度の失敗原因についての同制度側の統一見解のようになっている、当初の「74校乱立」にも関係している。つまり、司法試験合格実績がない大学までこぞってこの制度に名乗りを上げた背景には、この「狭き門」解消によって、自らも司法試験合格者輩出校になれるという「野望」が少なからずあったととれるからだ。

 

 しかし、「改革」の結果がどうであったかといえば、法科大学院は早々に「7、8割合格」の壁の高さに直面する一方、ほどなく弁護士需要論の見込み違いが露呈して年「3000人」量産計画そのものが破綻し、消えてしまう。つまり、司法試験合格者を修了者の2割台しか出せないということで、既にこの制度は、新プロセスの「理想の教育」が一定レベルの人材を輩出できないという、現実と実力を露呈するとともに、量産計画という最も制度導入を後押ししたはずの大義名分も失ってしまったのである。

 

 そして、さらに制度が突き付けられたもう一つの現象は、「予備試験」人気である。予備試験への志望者流出は、法科大学院制度への経済的時間的負担の妙味のなさへの志望者のはっきりとした意思表示であるとともに、「狭き門」自体が志望者にとって選択の決定的要素とも言い切れないことを実証した。旧試の合格率1~2%には及ばずとも、同3~4%の予備試験にチャレンジする志望者は年々増えているからである。

 

 しかも、厳しい関門が課されているだけあって、司法試験合格率において、予備試験組と法科大学院修了組の結果の差は歴然(2018年実績で前者77.6%、後者24.7%)としている。いくら制度側が本来の趣旨に反するという「抜け道」批判をしようとも、妙味のない負担回避が志望者にとっては当然であるばかりか、むしろ実力のある人間からすれば、予備試験ルートの選択・チャレンジは実力の証しと受け取っていておかしくないことにもなった。

 

 そして、そうした実力のある人間こそ、いくら法科大学院本道主義者が「心得違い」と批判しようが、法曹界にふさわしくないなどという烙印を押せないばかりか、それを上回る法科大学院修了ルートの「価値」を示し切れていない以上、歓迎されて当然の状況にある。

 

 ところが、これほどはっきりした現象が出ていながら、「改革」路線、法科大学院制度を擁護・死守したい側は、修了者の司法試験合格率さえ上がれば、しかも法科大学院の実力の問題ではなく、司法試験側が「不当に」合格させないことを直ちにやめれば、志望者が帰って来るという姿勢。さらには司法試験合格・資格取得までの時短化によって時間的負担さえ軽減で、志望者を回復しようとする制度の見直しが検討されている。学部3年+大学院2年の「法曹5年コース」導入、法科大学院在学中の司法試験受験容認という検討、さらには法科大学院擁護派からは、依然、現行司法試験の「狭き門」批判まで行われているのである(「法科大学院在学中受験『容認』という末期症状」)。

 

 しかし、「狭き門」に左右されない法曹志望者にとって、こうした誘導策が、そもそも法科大学院の変わらぬ経済的負担の前に、予備試験を選択しないことへのどれだけの動機付けになるかは甚だ疑問である。そして、さらにいえば、実力も示し切れず、大きな大義も失っている制度が掲げる「狭き門」を解消する方向そのものに、もはや社会的メリットがあるようにはとてもみえないのだ。

 

 いうまでもなく、もともと司法試験が「狭き門」であること自体が社会にとって不利益であると決め付けられるものではない。むしろ、法曹養成に厳しい選考過程が担保されることの方には、りっぱな社会的な意味がある。それを上回る、「狭き門」を解消する本質的な「価値」をもはや示せないことの方を、この「改革」と、それが形づくった制度ははっきりと示していないか。そして、それでも繰り出される制度側の欲求は、もはや制度の存続が自己目的化したものとしかいえないのではないか。

 

 法曹養成そのものが、本当に法曹になるべき人材にとっても、そして社会にとっても、もはやメリットのないものになろうとしているように見えるのである。



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