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 東京五輪・パラリンピック大会組織委員会会長の森喜朗氏の、女性蔑視発言から辞任に至るまでのドタバタ劇は、さながら現在のわが国に染み付く悪弊を次から次へと浮き彫りにして、私たちに見せつけるものになった観がある。

 そもそもの根拠不明の女性と会議の長時間化を結び付け、偏見をあらわにした発言と、そのうえで「わきまえる」女性をたたえた発言。女性の存在を、まるでやっかいもののようにおとしめる表現は、問題外であり、内外からの批判は当然過ぎるものだった。

 それにとどまらず、ここで浮き彫りになっているのは、「わきまえる」ことによって、いわゆるシャンシャン会議で事を進めることを望ましいものとする、この社会にはびこっている価値観である。より多くの人の意見を聞き、突っ込んだ議論の末で結論に至ることよりも、落とし所ありきで、結論に至る議論の省力化こそ、求められているということである。

 それを理解せず、意見を述べること、議論を続けようとすることこそ、「わきまえていない」、望ましくない参加者ということになる。そして前段の女性蔑視発言で森氏は、往々にして女性がそれに当たる、と決め付けたことになる。女性蔑視にとどまらず、そもそも民主主義的な議論の基本ともいえる労力を回避することが目的化している発想にしかみえない。

 彼の辞任論が沸騰し出すと、擁護論のなかで「余人に替え難い」と述べた政治家がいた。彼の功績・実績を評価したうえでの発言であることは、もちろん分かる。オリンピック直前の交代を開催にマイナスととらえる声も混じった。しかし、これは当然、彼の発言の不当性を、正当に秤にかけているかが、まず問われる。そして、結果として、それは擁護論が考える秤のかけ方が国際的にも通用しないことが明らかになったのである。

 ただ、それにとどまらず、前記民主主義的労力回避の目的化の現実をみれば、そもそも森氏のような「大物」の存在が、それを通用させる、それが期待されるという、それ自体が反民主主義的な「期待される政治力」として、この国に存在していることの深刻さを浮き彫りにしている。「わきまえる」同調圧力を生み出す中心に彼らがいる。政治主導といわれたものの失敗、「忖度」が生み出す不正義など、近年、決定的に浮き彫りになっているこの国の病に、つながってみえてしまう。

 森氏の記者会見は、結果として、彼の本音と前記役割をはっきりとさらすだけのものだった。皮肉にも、結果として、それはよかったといえるかもしれない。しかし、謝罪を口にしながら、何が悪くて、何を反省してるのか分からない会見は、批判の対象になったが、そもそもこれは政治家の不祥事にはありがちの姿だ。

 この国では「幕引き」という言葉がよく使われるが、これもそれが目的化する悪習を事実上、意味している現実がある。つまり、それが目的化するなかでは、何を本当に反省しているか分からない(分からなくても済む)、形式的あるいは儀式的解決への期待、そしてそれが現にまかり通る社会が想定されている。百歩譲っても、「これでなんとか収められるのではないか」という、時に甚だしい世論への侮りのうえに、それは繰り出されているのである。

 内外の批判の大きさに耐えかねて、森氏が辞任を決断した後も驚かされた。組織委の評議員である川淵三郎・日本サッカー協会相談役の後継指名、受け容れた川淵氏による森氏の相談役での残留要求である。発言の責任をとって退場する人間が、後継指名するということで、問題の重大さを全く自覚していない森氏の認識が分かるが、ここにも彼の中で、それでも当然に通用する(通用させてきた)「政治力」観を見る思いがする。

 退任の事情を百も知りながら、まるでそれを無意味化するような残留を求める川淵氏の感覚の中にも、日本的ともいってもいい悪習を見る。「余人に替え難い」森氏の政治力を、こういう形で受け継ぐことは、ひょっとすると川淵氏には最良の、グッドアイデアだったのかもしれないと思うと、相当深刻な感性が、この国には存在していることを感じさせる。「禅譲」という言葉に普通に置き換えられ、「院政」が当然のように「通用してしまう」現実があることをうかがわせるのである。

 そして、彼らの話ばかりではない。国民の目線もやはり考えなければならない。会長後任問題は、現在も残っているが、いったん彼らの「通用する」というヨミは、内外の批判によって砕かれた。一見すれば、現段階において、「通用させない」健全な世論が勝利したようにみえるかもしれない。

 ただ、果たしてそうだろうか。女性に対する偏見も、民主主義的労力を省力化することが目的化した「わきまえ」も、「政治力」への不健全ともいえる期待感も、それは政治やオリンピック開催に限らず、この社会の、あらゆる場面に、実ははびこり、それを一方で許容する、あるいは積極的に受け容れる意識は存在していないか。「通用する」という彼らの意識を、育んできたことに加担して来たのも、そういうわれわれの社会であるのも事実なのである。

 彼らの姿は、期せずして、鏡のように、われわれの社会の実相を映し出しているように思える。






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