〈弁解どころか制度イメージ否定に〉
この白木裁判官は、同補足意見の中で、自ら「いわゆるチョコレート缶事件」と呼称して言及している事件での自説について弁解している。私は先にこの事件の判決に関して意見を述べ、白木裁判官が同判決の補足意見として述べていることについても批判したことがある(前掲拙著p151以下)。
その中で私は、同事件の白木補足意見はいわゆるラフジャスティス、アバウト裁判の容認と解されるものであって、刑事訴訟法上到底容認し得ないと批判し(同著p160、p169)、「裁判員裁判においては、ある程度の幅を持った認定、量刑が許容されるべきことになるのであり、そのことの了解なしに裁判員制度は成り立たないのではなかろうか」との白木意見について、私は「ラフジャスティスでなければ裁判員裁判は成り立たないことを認識しつつ、ラフジャスティスを容認しても裁判員制度を維持させたいという熱意、情熱の発露がこの判決の生みの親であったと思わざるを得ない」と評した。
この白木ラフジャスティス意見は、私の先の車線の例によれば、これまでの裁判官裁判では車線内走行でなければならなかったけれども、裁判員裁判では多少は車線を踏み外してジグザグ走行をしても良いということにでもなろうか。本件の破棄の対象となった求刑1.5倍下級審判決はジグザグ走行どころか完全に対向車線にはみ出して走行してしまったようなものであり、かかる事態を招くに至ったのは、この熱意、情熱の発露の効果が白木裁判官の予想をはるかに上回って下級審裁判官を刺戟し過ぎたことが影響したのではないかと推察される。
白木裁判官は慌てて、今回の求刑1.5倍判決中においてその前の自分の意見について弁解したのが前記本件補足意見である。しかし、その弁解は、チョコレート缶事件における自己の意見についての弁解になるどころか、市民感覚の素直な反映、つまり「私の視点、私の感覚、私の言葉で参加します」という一般に認識されていた裁判員制度のイメージの完全な否定になってしまっている。
さらにこの白木裁判官の弁解は、裁判員制度について耳当りの良い前記のプロパガンドを使ってそれを広く国民に推奨してきた最高裁の失態を印象付けるものとなった。これが冒頭に述べた市民、マスコミの意見となって表れていると解される。
つまり、この一小判決が裁判員制度にもたらしたものは、単に量刑の問題だけではなく、もはや制度の存続の否定の宣言にもつながるということである。
〈国民を傷つけ困らせる制度〉
たまたまこの稿の起案中に、私外1名が原告代理人を務めた福島国賠訴訟の判決があった。結論は原告の請求棄却であった。その理由は要するに、原告が裁判員として誠実に職務を遂行したことによって急性ストレス障害になったことは認められるけれども、しかしそれは制度の違憲性に由来するものではない、国民の正当な義務の遂行の過程でたまたま発症したものであるから国には責任がないという驚くべき国民の基本的人権無視の判示である。
その判決の不当性はともかく、この制度は元々国民を傷つけるもの、困らせる制度の最たるものである。市民はそれを承知の上で裁判員になりなさいということにつながる。自分が裁判員になるとどんな身体・精神状態になるかは分からないから私は裁判員を辞退しますと言えば、国はそれを受け入れなければならなくなったということである。
もとよりそのように言うことは決して嘘をつくことにはならない。一度も経験したことのない裁判を経験して自分の身体・精神にどんな変化が生じるかは誰も予想はできないからである。それだから、その辞退理由としての言葉を大っぴらに国民に知らしめることが許されることになった。そればかりではなく、最高裁は、政治的中立の官署として裁判員制度を国民に正しく周知させようとするならば、そのホームページで、そのように申告して辞退できることをありのまま国民に周知させるべき義務があろう。
而して、裁判員制度は求刑1.5倍破棄判決の影響と相俟って近く終焉の日を迎えることになる。