裁判官が意見表明できない現実
東京、大阪、名古屋の各高等裁判所で、昨年5月20日ごろ相次いで裁判員制度に関する裁判官意見交換会が開かれました。その内容は裁判員制度礼賛意見の集大成と言ってもよいものですが、一つ引っかかるものがありました。
大阪高裁管内で開かれた会合で、ある裁判官が「裁判員制度の開始前に、この制度に否定的な考えを持っている裁判官もいるのではないかと思うが、本音ベースで教えてもらえないか」と発言したところ、司会の刑事上席裁判官は即座に「制度に関しての評価の問題になると思うが、この場で回答することは相当でないと思われる」と発言しています。
その会合は制度の是非を議論する場ではないのだからというのが、恐らく司会者の言わんとしたことではないかと思われますが、それではそのような議論、発言者のいわゆる「本音ベース」の応答は、いつどこで行われるべきなのか、行われたことがあるのかが見えてきません。
そのような中で、このような発言についての意見表明が封じられるとすれば、正に官僚司法の閉鎖性、秘密性を象徴するような意見交換会と言えるのではないかと思いました。
裁判官は裁判員制度をどう考えているのか、私のように政治的問題と捉える立場ではなくても、本音ベースで話し合い、その結果を発表できる雰囲気の欠如が、現在の司法にとっては極めて重大な問題なのではないでしょうか。
日本の裁判制度100周年の年、1990年に木佐茂男当時北大教授が、「人間の尊厳と司法権」副題として「西ドイツ司法改革に学ぶ」という著書を出されました。
木佐教授は、そのはしがきで「執筆の前提にあるのは、西ドイツ司法の明るさと比べて顕著な日本の裁判所の暗さである。多くの日本人には知られていないことであろうが、日本の裁判所は1960年代までの雰囲気とは異なったものになっている。現在の裁判所ほど、秘密、不信、統制、差別および権威主義が支配している公共部門は少ないようである。本書執筆のための取材に際してご協力をいただいた裁判所職員の方も少なくはないが、全体としては情報統制と秘密主義の徹底を感じた。・・・その違いは法系の違いに由来する異質さとは別個の、例えば官僚主義と人間主義といった違いに由来するもののように思える。・・・西ドイツの裁判所は人間に合ったように寝台を作るのに対し、日本の裁判所は寝台に合わせて旅人を切ったというギリシャ神話のプロクルステースのようではないかとしばしば考えた」と記しています。
だから、裁判員制度の採用が効果があるという学者もいますが、この裁判員制度は、そのような問題山積の裁判所が推進しているものであることを忘れてはなりません。裁判員は、裁判所のお客様であって、招いてくれた人に文句を言える立場の人ではありません。
控訴審の過半数は法曹一元裁判官に
私たちは、この今抱える裁判所の問題、裁判所が裁判官の独立性とその良心を信じ、官僚ではなく個性豊かな人間として裁き人としての役割を十分に果たせる方法を模索すべきだと思います。
即効性はないかも知れませんが、やはり法曹一元はかなり効果的ではないか、全くの思いつき的私見ですが、私は控訴審は法曹一元裁判官が少なくとも過半数を占める裁判体であることが望ましいと思っています。
まとまりのない話でしたが、いささかでも私の裁判員制度反対の理由をお汲み取りいただければ幸いです。かなり独断的なところもありますので、ご批判は甘んじて受けたいと思います。
最後に一言。さして闘争的ではない私をしてこの制度反対に頑固に向かわせるものは何か、それは国家の誤った制度によって不幸な人が一人でも出ないように、ただそれだけの思いです。=このシリーズ終わり