(2012年1月27日、仙台市職員労働組合の講演会から)
〈「騙し」に対する監視力〉
先日、私は原発問題について河北新報に投稿しました。それは没になりましたが、その内容は要するに原発再稼動は誰のためなのか、それは原発の停止によって損をする人、再稼動によってその利益につらなる人間の利益のためではないのかというものです。
我が国の原発54基のうち稼働しているのは2割、2012年3月までにはほぼ全原発が停止すると言われています。少なくても今止まっている8割の原発がなくても我が国の電力は間に合っている、その原発は必要がないということです。
この地上には原発ほど危険な装置はありません。廃棄物処理の方策もない、廃炉の方法も確立していない。それでも何故そんな危険なものを再稼働させようとするのか。
1月23日の毎日新聞朝刊トップに、今年の夏の電力は決して不足しない、余力があるということを政府は昨年試算していたのにそれを明らかにしなかったとの記事が掲載されました。再稼動の必要性に関する重大な事実なのに、それが公表されなかったのです。端的に言えば、政府・電力会社は、原発再稼動の必要性がないのに自分らの利益のために再稼動させようとしているということ以外には考えられません。
今回の震災、福島第一原発の事故から我々は何を知ったでしょうか。それは政府も電力会社もマスコミも真実を報道しないで国民を騙してきたということです。この話の一つのキーワードは、この「騙し」ということです。勿論、政治や企業その他社会関係のいろいろな場面で隠されているものが日常的にあることは分かっているつもりです。しかしここまで、権力や企業、マスコミなどの裏に隠された世界があったとは驚きでした。
不明を恥じる以外にはありませんが、私が「原子力村」という言葉を知ったのはこの事故のあとです。裁判員制度についても、その広報について、やらせ、さくら、パブ記事など国民の目を欺くことが行われたことが伝えられました。
我々は、これからはやはり眼光紙背に徹する眼力を持ち、この騙しの行為を暴きそして監視して行かなければなりません。その監視力こそが民主主義成熟度のバロメーターだと思います。そして批判し、行動すること、そのことをこの震災・事故から学ばなければならないと思います。
〈犠牲の構図〉
私の父は原発のある福島県双葉郡大熊町、合併前の旧熊町村で生まれました。父は既に亡くなりましたが、事故時まで、間もなく83歳になる長兄ら一家は原発3kmのところに住み、今は疎開して、いわき市の仮設住宅に住んでいます。先に述べた私の疎開先が、その大熊町であったのは、親類縁者が多数そこに住んでいたからです。終戦後、両親と長兄らはそこに住みつき、両親、祖父母の墓もそこにあります。
その双葉郡内に、先日、放射能汚染土等の中間貯蔵施設を設置する意向を細野原発事故担当相と野田総理が佐藤福島県知事らに伝えたといいます。私はそれを知って非常に腹が立ちました。
放射能さえなければ、そこは見事な山紫水明の地です。その意向伝達は、自分らが汚した土地を、どうせ使えなくなったのだからもっと汚させてくれというのと同じことではないでしょうか。余りに人の道から外れたことではないか、作るならば東京電力の電気を使っている地区内に適地を探すべきではないかと私は記しました。
先日、アフガニスタンでタリバン兵らしい人の死体にアメリカ兵4人が放尿したことが伝えられました。死体は物です。そのまま土に埋められるか、焼かれるかでしょう。放尿して何が悪い、理屈はそうかも知れませんが、人間には人の道、倫理ということがあるでしょう。人はそのような人の道から外れた行為を許すことはできません。
この中間貯蔵施設の問題も、同じ倫理の問題です。私はそのことを河北新報に投稿し、それは掲載して頂きました。今回の原発事故は、これまで経済性、合理性を優先させて来た付けではないのかとも訴えました。
私は、このことについて沖縄を想起します。厳密には異なる面があるかもしれませんが、太平洋戦争で悲惨な地上戦が繰り広げられた沖縄は、今なお、日本の全国土の0.6%の面積しかないのに、そこに在日米軍基地の74%を抱えさせられ、世界一危険な基地といわれる普天間基地を県外に移転させることさえ出来ずにいる。沖縄はわが国民の犠牲になっていると哲学者の高橋哲哉さんは述べていますが、今の福島はこの沖縄の犠牲の構図と良く似ていると思います。
私は、沖縄の問題を含め我が国の政治から倫理が置き去りにされている、そのことを非常に危惧します。